wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-16

呼吸は一種の主題、テーマであるため、異なる風貌・様相の、抽象的目標として出現することができる。呼吸を(観る事を)始めたばかりのとき、呼吸は粗くて長く、その後には、細くて短くなり、その後では、微細すぎて、とらえどころがなくなる可能性がある。

これらの一切の変化は、まさに、呼吸が生命を滋養するエネルギーであるという主題、テーマの健康的な表現である。

あなたの心が、引き続き、生命を滋養するエネルギーというこの主題を取り巻くように呼吸を体験するならば、呼吸は、灰白色の綿花のようになるか、または、いまだ磨いていないダイヤモンドのようになるか、または更に殊勝で燦爛とした、禅相になる。

故に、呼吸を、空気という物質でできているだけだと、かたくなに思い込むことは、よくないのである。

呼吸は、あなたの心における、歓喜であり、大切にするべき主題であるべきである。

このようにして初めて、あなたは単一の目標(所縁)が、ただの物にすぎないのだという誤解を、しないで済むのである。

実際、単一の目標(所縁)は、あなたの心と共に、異なるレベルの空間に入るとき、異なる風貌・様相を顕現する単一の主題、テーマなのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-17につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

是誰庵のひとやすみ~ツンデレ・オハナ

我が家の愛犬オハナ(←ハワイ語で<家族>の意)。

五歳(推定)の時、動物愛護センターから引き取られて我が家に来たオスのペキニーズ

現在10歳。

五年前に我が家に来たときは、とても荒れていて、私、だいぶ噛まれました。人間様によって、山の奥深くに捨てられて、登山者に発見されて愛護センターに連れて行かれて、「即、殺処分」判決を受けたのですから、荒れて当然ですね。

知人に「もう貰っちゃったんだから、噛まれるんなら、皮手袋嵌めてでも、世話しなくちゃ」と励まされ(脅かされ?)、おやつでつって、今では、なんとか仲よくなりました(どうやら、ペットショップにいたらしく、家庭犬のようには、おもちゃで遊べないのですが、食欲は旺盛です)。

私がパソコンいじっていると、傍に来て、彼専用の大きなクッションに上がって、のったりしています。白毛で、たれ耳なので、まるであざらしの赤ちゃんみたいで、可愛いです。

彼がそばにいるために、落ち着いて仕事ができないと思う時は、隣室においてあるケージに入れようとしますが、そこはちょっと寒い。私がリードを引っ張ると<あんな寒いとこ、イヤじゃ、イヤじゃ>とお尻から座り込んで抵抗します。

犬って、寒いの苦手だったっけ?ペキニーズは猫みたいにな犬、と言われているから、ま、そこんところは・・・(笑)。

そのうちサマーカットしますから、男前写真はその時に。

是誰庵のひとやすみ~仏教は楽しいか?

 先日、アチャン・Nが、我が家にお見えになりました。彼はテラワーダ(南伝仏教)で出家した日本人僧侶で、現在英国在住です

アチャン・Nのご訪問について、何人かの法友にお声をおかけしました所、みなさん喜んで、九州の各地から、ご参集頂きました。

アチャン・Nは私にとって兄弟子に当たりますが、彼と私は、ともに関西出身なので、会えばいつしか関西弁、私はすっかり<大阪のおばちゃん風>(笑)。

二人のやり取りが面白いらしく~ただし、話している内容は、出家歴30余年の僧侶による、本物のダンマトーク

我が家は笑いの渦に・・・。

そうなんですよね。

仏教って、本当は面白いものなんですよね。

「涅槃なんて、つまらない所に行きたくない」としたり顔で言う人いますけど、涅槃って楽しい所なんですよ!

だって、自分と他人への誤解が完全、完璧に解けて(または、誤解ぐるみの自分を受け入れて)、最高にリラックスしている心が、涅槃だからです。

アチャン・チャーは「無くしたと思っていた万年筆が、実はお尻のポケットに入っていたのを見つけたとき」を

<悟りの心境>と、説明しています。

己自身と物・事への誤解から抜け出して、己自身の本分に戻る。本来の自己に戻る。人生の重荷を降ろす。それが悟りです。

だから、「ホッ」とするし、また「嬉しく」もなるのですよね、悟ると。

仏教(ダンマ)は楽しい> 

Y盆地に響いた法友たちの笑い声、

<聖なる楽>の証でありますように。

 

 

是誰庵のひとやすみ~終活

就職活動を略して<就活>。そのデンで、婚活、終活などの言葉も、すっかり定着したようです。

今朝、WEBを見ていましたら、中尾彬夫妻の終活の話が、載っていました。

趣味のアトリエは片付けて、別途、お墓を買ったそうです(お墓のデザインは中尾氏)。

この記事に、庶民がコメントを載せているのですが・・・「やっぱ、終活なんて、中尾さんみたいに、お金がないとできないよね」

やっぱ、金ですか、どこまでいっても、金ですか・・・。

私なら死後、直葬して、散骨して、そのために、息子に50万円ほど残しておけばいいかな、と思っています(実際には、私は、献体登録をしているので、大学での実習解剖とその後の火葬、大学側主催の、無宗教による葬儀となりますが)。

難しいのは、死ぬ時に、ちょうど50万円ほどだけ、残っているという状況を作ることですね。

明日死ぬのか、それとも、後2、3年もつのか?

そして、その2、3年の間に、旅行でもしたいというのなら、その時点で残金が50万円、というのは困ります。

昔の僧侶はどういう風に死んでいったのでしょうかね。 種田山頭火なんか、たいしたお金も持たずに放浪したみたいですし、放哉さんも、どうでしたかね。

あと半年だな、と分かった時点で、200万円ほど持って旅に出て、50万円ほど残った所で、パッタリ。息子が引き取りに来て、大学の医学部に献体

う~~む、シナリオは完璧なんだけど(笑)。

是誰庵のひとやすみ~祈り

ある日の夜、ベッドの中で、このような事がありました。

私の住む町には温泉施設があり、水中運動ができます。

水中運動一回行く毎にポイントが付き、それを一万点ためて市役所に提出すると、抽選で一万円が当たります。

年会費が1.6万円なので、一万円が戻るのは、結構嬉しいです。

それでベッドに入って寝ようとしていると「ああ、年度末、そろそろ市役所で抽選が始まったかも」「あたるといいな」と思いました。

そしてフト身体を見る(観る)と、身体が固く硬直しているのです。心が欲の皮で突っ張ると、身体も突っ張るんですね、心身相関とはよく言ったものです。

身体が硬直しているのは良くないですね。

血流がとどこおって、どこかに異変が生じます。私はすぐに「一万円は、賞金を受け取るのに相応しい人に、届けられますように」とお祈りしました。一万円当たるのは私でも、他人でも、誰でもいい、と思ったのです。

そうすると、身体の緊張がフワっと解けて、すぐに眠りにつきました。

人を呪わば穴二つ。私は他人を呪った訳ではありませんが、他人を押しのけて、一番おいしいところを取ろうとしたので、まぁ、似たようなものなのでしょう。

<皆が幸せであるように>という祈りは、結局は自分にも幸せを齎すのだなぁ、と実感した夜でした。

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-15

単一の目標(所縁)とは何か?

単一の目標(所縁)とは、単純な、何か一つのモノという事では決してなく、異なる風貌をした、単一の主題、という事がいえる。

定を修する時に(+あなたが)専注している目標は、ただ単に物質的な目標だけではなく、更に多くの場合、それは心から変じ顕現した、抽象的な目標でありえる、という事である。

たとえ物質的な目標であっても、それは、一秒ごとに変化しており、ただ、その変化が非常に微細な為に、容易に察知できないでいるだけである。

定を修習する初めの段階において、通常、我々は呼吸という、物質的な目標を起点として、自己の啓発・育成を行うが、しかし、我々は、この目標は、始めから終わりまで、永遠に不変であることはないことを知っている。

実際、我々は、この目標を、一種の主題と見做す必要がある。

たとえば:我々が呼吸を定の修習の目標とする時、我々は、呼吸を一種の、生命を滋養するエネルギーとして体験する必要がある。

あなたがこのように呼吸を大切にすることが出来た時、あなたは初めて、呼吸を味わい、呼吸を楽しむことができるのである。

(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。(1-16につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-14

ここでは、「心を平等にして専注する」という言葉を、決して、全く変化のない修行目標を死守するのだ、と言う風に、誤解してはならない。

この言葉は、心と、修行の目標の間にある、活発な相互交流を指している事を、理解しなければならない。

この種の相互交流は、種々の方式で進めることができる。それが平和的で、趣があり、創意に富んだものであれば、それでよい。

どうしてこのような交流を「平等に」と言うのか?

というのも、この種の交流には、「平和」という特質があり、故に「平等」であるから、である。

絶対に、「心をして正確に専注せしめる」ことを、一つだけの事柄に絞る(すなわち、あなたの目標に専注する事)事だけが正しいのだと、誤解してはならない。

実際は、あなたが行う事柄が、あなたの単一の主題を取り巻いているのなら、それは正解である。たとえば、上述(No1-13)のピアニストのように、ピアノを弾いている過程の中において、彼は予備定の心境の内にいる。

この時、彼の耳、手、足、身体は、皆同時に、異なる事柄を処理しているが、しかし、これらの事柄は、皆、彼の単一の主題ーー楽曲を演奏する事ーーを取り巻いているのであり、(+このようにする時)彼は一種の、非常に良好な、定の心境の内にいるのである。

同様に、あなたが定を修習する時、もし、あなたの一切の心身の活動が、定の修習という主題を取り巻いているものであり、この主題の軌道に従って前進するのであれば、あなたは、心と心所というこの(+修習に)関して、「正確に」(+心と心所を)据え置いておくこと、保持することを成し遂げていることになる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-15につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>