Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-19

上述した部分(No.1-18)における、最初の誤解、問題点は:

我々が、定の顕現状態を観た時、我々は、知らず知らずの内に、不動揺の顕現状態を模倣して、それを通して、定を獲得しようとすることである。

実際、我々はどのようにすれば、定を育成することができるのか?

我々は、定の近因(直接的な原因)を育成するべきであって、定の顕現状態を育成するのでは、ないことを知るべきである。

この種の誤解によって、多くの修行者は、静坐・瞑想する時に、自分の体が動くことを非常に恐れるのである。彼らはいつも、身体が動くと、己自身は「不動揺」の状態から離れてしまうのだ、と思い込んでいる。

しかしながら、第一級の修行者に言わせると、あなたは、あなたの身体があまりに緊張していると、自然と、身体を少し動かして、身体をリラックスさせ、心が楽しく、ゆったりできるようにするものなのである。

この時、己の身体を不動のまま強制、強要することはよくない。

というのも、定の近因(すなわち、楽しさ)を何ほどか育成することを通して、あなたは、近行定に近づくことができるからである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-20つづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

是誰庵のひとやすみ~戒名の起源

俳優の渡瀬恒彦さんが亡くなられ、兄の渡哲也さんの談話が、web載っていました。

渡瀬さんは家族葬で、戒名はなし、だそうです。

時代はここまで来たのかな、と思いました。

有名人でも、セレブでも、家族葬で、戒名はいらない・・・。

葬儀自体は、盛大にするか、こじんまりとするかは、人それぞれだと思いますが、戒名・・・亡くなった方に戒名を付ける、それも暗黙の習慣として、高額の布施を伴う、というのは如何かな、と思います。

戒名(または法名)は読んで字の如く、戒を守ると誓ったときに、戒師(住職、和尚さん)から頂く、一種のあだ名です。もちろん、生きている内に貰います。

ゴータマ仏陀の時代、インドにはすでに四姓差別がありました。司祭、貴族、商人・農民、奴隷の順に偉い、清らかだというのです。

仏陀はそれを否定し、四姓は平等、万人は平等である、と宣言しました。

所が、仏陀が開いた教団(精舎)に出家して住み着いた人々は、旧癖が抜けず、お互いに呼び合う名前から、世俗世界、娑婆にいたときの地位を勘案し、遠慮したり、威張ったりしていたそうです。

それをみた仏陀が「世俗の名前を捨てなさい。私が新しいあだ名をつけてあげよう」と言いました。これが戒名の起源です。

私も緬甸のパオ森林寺院で出家した尼僧なので、戒名を持っています(得度式に感謝して、日本のボールペンを少々お布施しましたが、それだけです。お布施のアリナシなど気にしている人はいない、と思いますよ)。

戒名(法名)は、生きている間に、戒師につけて頂くもので、死んでから、布施と交換に、残された家族によって、手に入れるものではありません。

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-18

定の特徴、作用、顕現、近因

問題三:定の特徴、作用、顕現、近因とは何か?

回答三:定の特徴は「不散乱(散乱しない事)」、作用は「散乱の除去」、顕現は「不動揺(動揺しない事)」、近因は「楽しい」。《清浄道論・第三品》

止禅を修行して、定力を育成しようとしている人にとって、上記の文言は、非常に奥深い陳述である。

(一)「不散乱」、

(二)「散乱の除去」、

(三)「不動揺」、(四)「楽しい」。

この四つの項目は、詳細に考察されなければならない。

その中で、「楽しい」というこの項目が主導する近因は、最も重要である。

上記の記述を理解する為に、非常に忙しい企業家を想像してみたい。

一日中忙しかったので、彼は非常に疲れている。しかし、一時間半後には、非常に重要な会議が彼を待っている。

今、彼はすべての仕事を手放し、呼吸念(または安般念という)の修行をする。

20分後に彼は入定した。

彼の秘書が門の前に来て、扉をノックしようとしたとき、秘書は彼が坐して動かないのを見た。

これが定の顕現「不動揺」である;

この時、彼の心には「不散乱」の特徴が顕現しており、彼の証得した定には「散乱を除去する」作用がある。

しかし、これらの一切を生じせしめる近因(直接原因)は、「楽しい」である。

この楽しさの来源・ソースは、善くて巧みな方法によって、呼吸を体験することによって生じたものである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-19につづく)

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-17

たとえば、《清浄道論・第四章》に以下のような重要な解説が書かれている:

「地遍(または土遍)」を修行する時、我々は、心に歓喜を生起させることのできる、どのような主題・テーマまたは概念をも借用することができる。

「土」というこの物質は、我々に以下のような連想をさせる、すなわち:地面、大地(天を戴き、地を戴く)、友愛の大地(大地の如く耐え忍ぶ)、富を齎す者(皇天后土)、無比なる富を隠し持つもの(地以厚徳載物)、または地と相応して、あなたを啓発することのできる主題または概念。

このことから類推して、その他の業処を修習する時も、かくの如くであるようにする。

◆結論:

(一)定を修習する時、あなたの心は将に、平等に、正確に単一の目標(所縁)に向かっている。あなたが活動的で活発な心を維持し、毎日、修行の目標に対して、調和のとれた交流を行うならば、それがここで言う所の「平等に専注する」ということである。

(二)正確に専注する:あなたの心が単一の主題、テーマを巡って正確な軌道に沿って前進するならば、それはここで言う所の「正確な専注」である。

(三)単一の目標(所縁):単一の目標を、単一の<もの>であると思うのは間違いであり、更に間違っているのは、物質的な目標であると考える事である。

それは一個の主題、テーマとして見做す必要があり、心境の変化に伴って、種々の異なる風貌・様相が出現するものでなのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-18につづく)

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-16

呼吸は一種の主題、テーマであるため、異なる風貌・様相の、抽象的目標として出現することができる。呼吸を(観る事を)始めたばかりのとき、呼吸は粗くて長く、その後には、細くて短くなり、その後では、微細すぎて、とらえどころがなくなる可能性がある。

これらの一切の変化は、まさに、呼吸が生命を滋養するエネルギーであるという主題、テーマの健康的な表現である。

あなたの心が、引き続き、生命を滋養するエネルギーというこの主題を取り巻くように呼吸を体験するならば、呼吸は、灰白色の綿花のようになるか、または、いまだ磨いていないダイヤモンドのようになるか、または更に殊勝で燦爛とした、禅相になる。

故に、呼吸を、空気という物質でできているだけだと、かたくなに思い込むことは、よくないのである。

呼吸は、あなたの心における、歓喜であり、大切にするべき主題であるべきである。

このようにして初めて、あなたは単一の目標(所縁)が、ただの物にすぎないのだという誤解を、しないで済むのである。

実際、単一の目標(所縁)は、あなたの心と共に、異なるレベルの空間に入るとき、異なる風貌・様相を顕現する単一の主題、テーマなのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-17につづく)

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

是誰庵のひとやすみ~ツンデレ・オハナ

我が家の愛犬オハナ(←ハワイ語で<家族>の意)。

五歳(推定)の時、動物愛護センターから引き取られて我が家に来たオスのペキニーズ

現在10歳。

五年前に我が家に来たときは、とても荒れていて、私、だいぶ噛まれました。人間様によって、山の奥深くに捨てられて、登山者に発見されて愛護センターに連れて行かれて、「即、殺処分」判決を受けたのですから、荒れて当然ですね。

知人に「もう貰っちゃったんだから、噛まれるんなら、皮手袋嵌めてでも、世話しなくちゃ」と励まされ(脅かされ?)、おやつでつって、今では、なんとか仲よくなりました(どうやら、ペットショップにいたらしく、家庭犬のようには、おもちゃで遊べないのですが、食欲は旺盛です)。

私がパソコンいじっていると、傍に来て、彼専用の大きなクッションに上がって、のったりしています。白毛で、たれ耳なので、まるであざらしの赤ちゃんみたいで、可愛いです。

彼がそばにいるために、落ち着いて仕事ができないと思う時は、隣室においてあるケージに入れようとしますが、そこはちょっと寒い。私がリードを引っ張ると<あんな寒いとこ、イヤじゃ、イヤじゃ>とお尻から座り込んで抵抗します。

犬って、寒いの苦手だったっけ?ペキニーズは猫みたいにな犬、と言われているから、ま、そこんところは・・・(笑)。

そのうちサマーカットしますから、男前写真はその時に。

是誰庵のひとやすみ~仏教は楽しいか?

 先日、アチャン・Nが、我が家にお見えになりました。彼はテラワーダ(南伝仏教)で出家した日本人僧侶で、現在英国在住です

アチャン・Nのご訪問について、何人かの法友にお声をおかけしました所、みなさん喜んで、九州の各地から、ご参集頂きました。

アチャン・Nは私にとって兄弟子に当たりますが、彼と私は、ともに関西出身なので、会えばいつしか関西弁、私はすっかり<大阪のおばちゃん風>(笑)。

二人のやり取りが面白いらしく~ただし、話している内容は、出家歴30余年の僧侶による、本物のダンマトーク

我が家は笑いの渦に・・・。

そうなんですよね。

仏教って、本当は面白いものなんですよね。

「涅槃なんて、つまらない所に行きたくない」としたり顔で言う人いますけど、涅槃って楽しい所なんですよ!

だって、自分と他人への誤解が完全、完璧に解けて(または、誤解ぐるみの自分を受け入れて)、最高にリラックスしている心が、涅槃だからです。

アチャン・チャーは「無くしたと思っていた万年筆が、実はお尻のポケットに入っていたのを見つけたとき」を

<悟りの心境>と、説明しています。

己自身と物・事への誤解から抜け出して、己自身の本分に戻る。本来の自己に戻る。人生の重荷を降ろす。それが悟りです。

だから、「ホッ」とするし、また「嬉しく」もなるのですよね、悟ると。

仏教(ダンマ)は楽しい> 

Y盆地に響いた法友たちの笑い声、

<聖なる楽>の証でありますように。