Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-29

ちょうど水泳を学ぶときのように、体系と善くて巧みな方法(=方便)を、学ばなくてはならない。

通常、水泳を学びたいとやってくる人は、すでに一定程度の決意と自律心を備えているものである。

故に、指導者の主要な任務は、まず、生徒に水を怖がらないようにし、その後に、基本的なテクニックを教えるーーたとえば、泳いでいる最中の息の吸い方、正確な水の蹴り方、正確な水の掻き方等。

彼の心づもりにあるのは、それぞれの過程で教える内容において、生徒が興味を覚えるもので、かつ、生徒にとって、消化できるものでなければならない。

次に、指導者は浮き輪を使って、泳ぐことを教え、彼は生徒が泳ぐのを見守る。その後に、彼は生徒に浮き輪を放すように言い、かつ、生徒が泳ぐのを傍で見守る。

こうして、最後には、生徒は、一人で泳げるようになる。

すべての過程において、生徒の心身にとって、消化できるものなので、生徒は愉快に感じ、喜悦、軽安、楽しさを感じ、ますます水を好きになる。

故に、生徒は、ますます上手に泳ぎ、最後には、水泳が、生徒の第二の天性になるのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-30につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-28

五蓋から離れる事より外に、我々は常に、以下の事に注意を払わなければならない:

それはすなわち、我々の修行は、必ず愉快、喜悦、軽安、楽しさに満ちたものでなければならない、という事。

というのも、これらの要素があるとき、我々は正定を成就することが、できるのであるから。

故に、我々自身が、自分に定があると感じられるようになる以前、我々の指導法則は以下のようになる:

(一)修行に入る前:

(反省する)「私の心は、五蓋を離れているか?」

(二)修行の最中:

総括的に言うと、我々自身がリラックスして、心地よさ、楽しさを感じているならば、正道を歩んでいると見做せる。

もしあなたが、このように修行することが出来るならば、止禅とは、リラックスしており、愉快で、何等の苦労も、することもないのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-29につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-27

これらの因の中で、最も基本的なものは、心の中に五蓋があるか、ないかである。

五蓋があるとき、邪定が生じる;

五蓋がないとき、正定が生じる。

≪中部・第108牧者目連経≫の中で、婆羅門が問う:

「世尊は、あらゆるジャーナ(定)を称賛するのでしょうか?」。

世尊は以下のように答えた:

「婆羅門よ、すべてのジャーナ(定)が、世尊によって称賛されるという事はない。また、すべてのジャーナ(定)が、世尊によって譴責されるという事もない。」

「どのようなジャーナ(定)を、世尊は称賛しないのか?

ある種の人々の心は、貪欲によって繋縛され、貪欲に飲み込まれ、(どのようにして)如実に、すでに生起した貪欲から離れればよいのかを知らない。心内の貪欲を増長させながら、彼は定を修し、更に定を修し、(+正しい)定を修することに反し、間違った定を、修している。」

「彼の心は憤怒、昏沈と眠気、浮つきと後悔、懐疑によって繋縛され、憤怒、昏沈と眠気、浮つきと後悔、懐疑に飲み込まれ・・・世尊はこの種のジャーナ(定)を称賛しない。」

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-28につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~卵を温める

精神世界の事柄は、分からない事は分からないままに置いておき、分かるまで、心の中で温めた方がいい場合が、とても多い。

先日も、20 年来の疑問が一つ、イヤ、合計で3つ、解けました。

一つ目は、ラべリングの時に使う言葉への疑問。

今まで、(某仏教協会の指導によると)声を聴けば、名詞で「音、音」とラべリングするように言われていましたが、実は「聞いている」と動詞でラべリングするのが、正解(他の根門も類同)。

他人の話す言葉を、一音づつ分解しながら聞き取って、意味を付加しない(で冷静でいられる)のは、最高のレベルの聖者しかできない<技>だと思います。

凡夫は、声を聴くと同時に意味合いも知ってしまう(それほど心は、動くのが速いという事。無常迅速)ので、無理に「音、音」としないで、「聞いている」がよい。

「聞いている」とラべリングすると、凡夫は凡夫なりに、心に余裕が出来て、聞いている意味内容、対象に引きずられなくて済む(ただし、ラベリグの多用は良くないと思います。ラべリングは、ほどほどに)

二つ目は、最近、ゴエンカ・ヴィパサナー・センターから送られてきたメールを読んで、ハタと膝を打ちました。

ゴエンカ氏はすでに遷化されましたが、彼が生前残した言葉が時々、メールで配信されることがあります。

ある日のメール。

そこには「私の師であるウ・パキンは、『ラべリングをしてはいけない。』『ただ、静かに、呼吸を見なさい。呼吸を強くしたり、弱くしたり、止めたりしてはいけない。あるがままの呼吸を観るのです』と教えました」とありました。

在緬甸のインド人であるゴエンカ氏が、ウ・パキン師から(広義の)ヴィパサナー瞑想を教わった時代、緬甸人の間では、すでにラべリングの可否が、問題になっていたことが分かります(ラべリングに賛成であるとしても、名詞でラべリングしてはいけないのではないか、という問題も含む)。

日本は、ラべリングに賛否両論があることを知らないまま、「これぞ仏陀の教え」として、無自覚に受け入れてしまった 30 年近い歴史があり、現在、その副作用が問題になっています。要注意です。

三つ目は、八聖道の中に<正定>がある以上、それと対応する<邪定>というものがあるはずで、では<邪定とは何か?>という問題が、やはり 20 年間、分からないままに来た、ということです(少なくとも、私は、寡聞にして、納得できる説明を聞いたことがなかったです。)

今回「掌中の葉」(中国語版)を翻訳している中で、その回答を見つけました。これも 20 年来の疑問が一挙に解決した一瞬でした(「掌中の葉」No1-26参照の事)。

精神世界の問題で、「これはなんだか違うような気がする」「これはなんだか変だな」と思ったら、己自身の感性を信頼して、疑問が腹落ちするその日まで、雌鶏が卵を温める様に、私たちも、胸の中でそっと温めておきましょう(ペンギンなら、股の間ですかね~笑)。

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-26

上述の経文に基づいて、我々は「定」の因を、下記のように、総括することができる。

正定が果である時の、その因。

1、心は五蓋から解脱している。

たとえば、他人を利益したいという清浄なる動機から修行するとき;

放下(=手放す)の精神で修行する時。

2、愉快な気持ち、喜悦、軽安(平静)の心で修行する時。

たとえば、適度な精進、適度な瞑想時間。

身体のリラックス度に応じて、徐々に瞑想の時間を延ばし、バランスのとれた心境によって、修行の目標を、経験する。

3、近因(=直接原因)ーー善なる楽しさ(執着のない楽しさ)。

邪定が果である時の、その因。

1、心は五蓋を伴っている。

たとえば、利己的な、自己中心的な動機で修行するとき;

強烈な執着の下、結果を追い求める心で、修行する時。

2、愉快な気持ち、喜悦、軽安(平静)の心を伴わないまま、修行する時。

たとえば、無理な精進、身体のリラックスの程度を無視して、長時間瞑想しようとする。

修行の目標に、過度に専注しすぎ、そのために頭痛などの副作用が起きる。

3、近因(=直接原因)ーー不善なる楽しさ(強烈な執着のある楽しさ)と焦り、脅迫性。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-27につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~「顕正法蔵」翻訳再開の弁

しばらく「顕正法蔵」「目の中の塵」の翻訳を休んでいました。

「掌中の葉」に、重要な命題が紹介されていましたので、その部分を翻訳するのを優先していた、からです。

それは何かというと「正定とは何か?」「邪定とは何か?」という命題です。

もう 20 年前になりますが、ある瞑想会に参加した時、正定とは何か?が話題になりました。

その時の指導者は「正しい目的のために定に入るのを正定といい、盗みなどの為に心を集中させるのを邪定と言う」と説明されました。

私はその答えに、少し不満でした。

たとえば、子供が、病気の母親の為に薬や栄養剤を盗もうとしている時の集中力、それは邪と言えるのかどうか?

盗み自体はよくないけれど、彼の心は邪なものだろうか?それとも愛だろうか?

盗みをする子供の心の正邪、一体誰がそれを裁けるだろうか?と思ったのです。

その答えは 20年 たって、「掌中の葉」の中で見つけました。

No1-26がその答えです。

原文は表になっているのですが、ハテナは表が作成できませんので、箇条書きに変更してあります。

どうぞ、参考にされて下さい。

「顕正法蔵」「目の中の塵」の翻訳、再開します。

お楽しみに。

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-25

上述の経文では、定が生じる要素を、述べている。これらの要素の中において、我々は、強制、決意、死守などの項目を見つけることは、できない。

経文では、上記のものが、定を決定する要素であるなどという事を、述べたことがない。

反対に、我々は、ちょうどこれらと正反対の要素を見つけることができる。すなわち、それは煩悩から遠くはなれた心、愉快であり、喜悦であり、軽安であり、楽しい心である。

定の修習におけるキーポイントは、専注のために心を強制したり、非常に強力な決意をもって、修行の目標を専注する事には、ない事である

キーポイントは、善で巧みな方便を用いて、あなたは、あなたの定を修習する過程全体を、興味深く、更に楽しく、更に軽々と、更に優美にすることである。

あなたの定の修習の過程において、心身における益々の愉快、喜悦、軽安、楽しさが生じる時初めて、あなたの心は自然に不散乱になり、定とは無関係の、その他の事柄に向かって楽しさを求め、奔走しなくなるのである。

しかしながら、ここにおいて、一つ重要な提案として、定の修習を始める段階においては、適量の決意と自律は必要である、と言う。

しかし、それらは、決して定の修習における主要な動力となることはない。

これが、一たび、あなたが必要な決意と自律を得た後に、良き師は、あなたに、いかに善で巧みな方法で定を修習するよう指導しなければならなしか、という理由である。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-26につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>