Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-34

8-6-2-3 念(sati

「念」(sati)という、この文字の、語根の意味は、「憶念」である。

しかし、心所(+の働き)としては、それは、留意する、目標に対して気づく、ということになる。

我々が布施(dāna)、持戒(sīla)と禅の修行(bhāvanā)に尽力する時、善心(kusalacitta)に対する信(saddhā)がある(+と言える)。

もし、善なる法の価値に対して、信心(=確信)がないとき、我々は、何等の善業(kusala kamma)もなす事はない。

善心は、信をもって、その任務を実践するだけでなく、念も必要である。

言い換えれば、善なる法に対して、気づきと、忘れないでいる事(+という、心の働きが必要である)。

多くの、布施、持戒と禅の修行の機会があるのに、しかし、我々は、しばしば善法を忘れ、これらのチャンスを見逃している。

念が生じる時、それは、善法への気づきであり、それは、善を行うチャンスを見逃さない、という事でもある。

(我々は)布施、持戒と止観の禅の修行について、正念を保持する必要がある。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-35につづく)

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-31

正定と邪定の見分け方

正定と邪定を見分けるには、瞑想・静坐の後に得られる結果から、判断することができる。

何ほどかの時間をかけて、順序良く訓練された後、あなたは、ある程度の定を、経験することができるようになった。

この時、以下の事に注意を払わなければならない;すなわち:

(一)あなたは、すでに粗い五蓋を取り除いたが、しかし、微細な五蓋が生起した時、あなたは、それを察知することができない可能性がある。

(二)定の修習において、あなたは、楽しさを感じるかも知れない。しかし、楽しさは二種類ある:すなわち、善なる楽しさ(執着のない楽しさ)と、不善なる楽しさ(執着が伴う)である。

(三)非常に重要な事は、第一級の修行者が定の修習をする時、「今、私の心の中に、五蓋があるか?ないか?」「私には今、正定があるか?」と検査したり、分析したりしない、という事。

というのも、これらの分析と検査は、彼らの定力を削減・減退させるから。

故に、この段階において、最もよい方法は:

一回ごとの定の修習の後に、己自身の状態を検査し、そのことを通して、先ほど入定した所の定は、正定であるかどうかを、判定するのがよい。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-32につづく)

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~天使の目

毎日の日課で、昨日も、温泉プールに行きました(水中運動の為)。

一時間ほどで運動は終わり、普段着に着替えて、帰ろうとしていた時。

4月に小学一年生になったばかりの女の子が、こういいました。

女の子「おばちゃん、頭、坊主だけど、お坊さんなの?」

私「うん、そう」

女の子「お坊さんでも、頭、坊主じゃない人いるよ?」

私「日本のお坊さんは、毛を生やしても構わないことになっているからね。おばさんは、外国で尼僧さんになったから。外国のお坊さんは皆、坊主になるんだよ」

女の子「うん、そうだね。お坊さんなんだから、頭、坊主にしたほうが格好いいよね」「でも、おばちゃん、衣、着ていないよね?どうして?」

私「Y盆地は寒いでしょ?桜は咲いたけど、今朝は7度だったから、やっぱ、普通に、ズボンとか、セーターとか、ダウンとか、着たいのよね」「尼僧さんは、薄い綿のスカートだから、冬はね、ちょっと辛い」

女の子「おばちゃん、スカートの下に、スパッツ履けば暖かいよ。お坊さんなんだから、お坊さんの服装した方がいいよ」

私「そうだね。じゃ、今度、きちんとお坊さんの服装してくるね」「恰好いいから、見てね」

女の子「うん、分かった」

7歳の子供でも、僧侶のなすべき義務ーーー頭を剃り、三衣を着て、仏法の宣揚アイコンとして、人々に影響を与える事--ーを知っているのですね。

驚きました。

 

是誰庵のひとやすみ~他山の石

日本伝来の、または中国から伝わった諺で、その意味が、本来のものと変わってしまったものが、ままあります。

表題の「他山の石」もそうです。

日本では「他山の石」は、嫌な人に出会った時、「ああいう人には、なりたくないものよ」という、反面教師的な意味で用いられますが、本来の言葉は「他山之石、可以攻玉」(玉は錯とも。錯は砥石の事)で、その意味は「他の山にある軽石(または砥石)は、我が山にあるダイヤモンド、宝石を磨くのに使える」で、そのココロは、「ありがたい、ありがたい」(笑)。

私も長い間、「他山の石」を反面教師的に用いていました。

がしかし、先日、ちょっとソリの合わない人に出会って、自分が彼女に、どれだけ反発しないでいられるか、軽いサマーディに入って、自分の心を観察してみました。

その時、この人に対して、私の心に「ありがたいな」という気持ちが生まれました。

そうなんですね。こういうタイプの人がいてくれて初めて、自分は、こういうタイプの人の言動に苛立ってしまうとか、こういうタイプの人の言動に不快になり、打ちのめされてしまうのだ、という、己の心の(悪い)癖に、気が付くことができるのですね。

彼女は私に、「ああ、自分はまだまだインドリア・サンバラ・・・六根門の守護が足りていないな」と気づかせてくれました。有難いことです(だからといって、これ以上、深く付き合おうとは思いませんが。ゴータマ仏陀も、友は選ぶべし、と言っています。)

ダライ・ラマ猊下も、「私は決して中国人を恨まない」と言っていますね。

それは、弾圧をしてくる中国人(権力)のおかげで、チベット人の心は、ますます強くなり、慈悲を実践できる民族へと成長することができる、と言っているのだと思います(だからといって、権力による民族の弾圧がよい訳はありませんが)。

キリストも「汝の敵を愛せ」と言いました。

敵は本来、己自身の心の中にあり、それに気が付かせてくれるのが、外の敵、他山の石、なのかも知れません。

 《追伸:彼女は、彼女の生き方を、自分で決めることができるーーこれが、your business。

それに対して、私の心の持ちようは私が決める--これが my business。

この区別がつくと、人生、すごく楽になる。》

 

 

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-33

精進の近因(=直接原因)は、怖れの心または精進事

(=精進そのもの)である。

生・老と死は、我々をして、最終的に生死輪廻から解脱できるような正見を、急ぎ育成させるよう促すことができる。

我々が、出入息、または安般禅相、または究極法に対して、正念を保持するのを受け入れ、促す時、決して、一個の自我が存在して、正念を保持しているのではないことが、分かる。

正精進は、一種の究極法であり、それが生起するのは、その因と縁が強化された事、及び、(+心の)支えによるのであり、また、その相応(+する心)、正念を具備する心、(+が原因)でもある。

精進は、勇猛果敢に、かつ持続的に、八聖道を育成するために、必要である。

というのも、それは、苦の滅に至る、唯一の道であるのだから。

老、病と死は、生きるうえでの事実であり、それは、我々に、急ぎ、正見を育成しなければならないことに、目覚めさせる。

それらは、我々の、牛追い棒である。

それらは、正精進の近因であり、言い換えれば、安般禅相または究極法に対して正念を保持するという実践項目に対して、精進することでもある。

精進とは「一切の成就の根である」

ーーこれは《清浄道論》における精進への定義である。

精進は一種の根(indriya)であり、ジャーナと証悟に到達する為に、他の根と同時に育成されなければならないものである。

精進は、怠惰を制御または阻止する。

怠惰は、ジャーナと証悟への障礙となる。

精進もまた道分の一種で、正精進(sammā-vāyāma)と言う。

正精進は、八聖道分の中の、正見と共にあって、初めて道分となることができる。八聖道における正精進は、四念処の修行を通して育成される。

極法に対して正念を保持する時もまた、正精進が生じる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-34につづく)

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

 

 

是誰庵のひとやすみ~水泳と登山

さぁ、四月です。

桜が咲くと、色々なことがしたくなります。

私は、今年は、水泳と登山(里山歩き)です。

私は毎日、水中運動用の温泉プールで、歩行運動をしているのですが、水深が浅いなりに、泳いでいる人がいて・・・それ、ちょっとうらやましかったので、隣町まで水泳を習いに行く事にしました。

目標は、クロール息継ぎ、ターン可、ですかね。もっとも、行きつけの温泉プールには、ターンするところないですけど(プールの端っこは、打たせ湯になっているので)。

クロール、息継ぎができるだけでも、格好いいですよね(笑)。

登山は、久住連山が近くにあるので、目標は・・・坊がツル湿原・・・どうでしょうか、私、老婆でも行けるでしょうか?

まずは、その手前にあるタデ湿原に行ってみますか・・・。

日曜・祭日にビジターセンターに集合すれば、<自然観察会>のプロが、(無料で)引率してくれるそうです。

登山靴も磨いてあります。

いざ、出発!

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-30

善くて巧みな、定の修習における過程もまた、この通りである:先に、修行者本人に決意と自律心が必要である。というのも、そうであれば、修行が理想的に進まなくても、引き続き修行に取り組むことができるから。

指導者で言えば、修行者に(+修行の)方法を教えるのであれば、修行者がますます修行の目標を好むようにしなければならない。

その後、修行者がその心身において消化できる方式を用いて、定の修行における要領を掌握する方法を教え、定の修習の一つ一つの過程において、修行者が愉快に感じ、喜悦、軽安、楽しさを感じる様にする。

このようにすれば、修行者は、ますます修行が上手になり、定に入ることが、彼の第二の天性なるのである。

◆結論:

(一)正定の最も基本的な因は、五蓋を離れた心である。

(二)上記以外では、愉快、喜悦、軽安と楽しさもまた、定の重要な因である。

(三)あなたがいまだ定を得ない前、以下の二項が有用な指導法則になる:

1.修行に入る前:「私の心は、五蓋を離れているか?」(+と内省する。)

2.修行の最中:「私の心がリラックスしていれば、私の修行は正しい。」(+と確認する)。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-31につづく)

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>