Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-44

こういう事から、理論を談じている時、我々は究極的なレベルによって、止禅を論じる事は出来る:が、しかし、実修について語る時は、相対的なレベルで語るのが良い。

というのも、定力の育成は段階的なものであり、純粋の程度は、低いレベルから、徐々に高いレベルへと進歩していくのであるからである。

一たび入定できるようになったからといって、いきなり、百パーセント純粋な状態に、なれるわけではないのである。

仏陀の膝下にあった、神通第一の大モッガラーナ尊者でさえも、彼の入る第四禅は、100%純粋という訳でもなかったので、時たま、(+外部の)音が聞こえる事もあったのである。

こういう事からも、もし、止禅において順調に進歩したいと願うのであれば、初めは、実修については、相対的なレベルから話を始める方が、現実に見合っている。

ただ、ジャーナができるようになった後も、引き続き、止禅の修行を長年実践している、老練な修行者だけは、究極的な基準に基づいて、己ジャーナのレベルを計ることができる。

もし、修行の最初から、己自身に対して、必ずや究極のレベルでなければならないと要求するならば、それは無理な話であって、己の信心(=確信)を打ち砕き、己の進歩を阻害し、プラスの効果は決して、生じないのである。

修行者は、この点についても、上記を参考に、(+相対と究極のレベルの)話を混同させないよう、はっきりと理解するべきである。

◆結論:

(一)精通の程度から言えば、定には三種類ある。すなわち、下等、中等、上等である。

(二)安止定という語彙は、二種類のレベルに用いられる:すなわち、相対的なレベル(日常的な用法)と、究極的なレベル。

(三)相対的なレベルにおいては、純粋な安止定と、純粋でない安止定がある。

(四)究極的なレベルにおいては、安止定とは、色界心と無色心の心識刹那を指すものである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-1につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)1-43

たとえ話をしよう。

今、私の手元には、一杯の水がある。

相対的なレベルで言うと、私は「私の手元に一杯の水がある」と言える。

しかしながら、究極のレベルで言えば、このコップの中には、ただ純粋に、水だけがあるのではなくて、水の中には、多くのミネラルがあり、その意味においては、この水は純粋・清らかではない。

水の分子は水の分子、ミネラルの分子はミネラルの分子であって、相互に異なっている。

しかし、水の中にミネラルが存在しているからといって、それを「一杯の水」と言ってはいけないのかどうか?現実の生活をする上で、我々は、それをそのように呼んでもよいと思われる。

それは、仏陀が、大モッガラーナ尊者の第四禅を、そのように呼んだのと同じことである。

現実の生活の上では、あまりに正確に、厳しく用語を詮索するのは、実際的ではない。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-44につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-45

この種の修行方法は、あなたにとって、困難なことかも知れない。というのも、あなたは、四界分別観を修行したことがないから。

しかし、もしあなたが、それを修行したことがあるのならば、問題はない。

注釈では、あなたは、もう一つ別の修行方法を、実践することができる、と述べている。

それは、あなたは、あなたの信根が、強力になりすぎるような方式で、出入息に専注する事、または安止定似相に専注する事を、辞める事である。

安般念の修行をする時、または禅相に専注する時、あなたは、注意してこのことを避ける様にするべきである。

次に、あなたは、信根の生じる原因を、観察するべきである。その後に、あなたは、因と果の両者を、無常・苦・無我として観察しなければならない。

もし、あなたがこのように修行するならば、あなたの信根は弱まるであろう、というのも、あなたの慧根が、強化されるからである。

観禅の修行をする時、この種の修行方法は、あなたにとって、非常に容易なものとなる。

もし、精進根が強すぎる時、その他の信、念、定、慧の諸根は、おのおの、決定、確立、不散乱と安般念似相を見通す(=透視する)という作用を、実行することができない。

強すぎる精進は、心をして、平静に、似相において、専注することができなくさせる。

このことは、また、七覚支の内の、軽安、定と捨覚支の強度が足りない事を、意味している。

この状況の下では、軽安、定と捨覚支を育成することを通して、精進を緩和しなければならない。というのも、精進は、定によってバランスされるのであるから。

故に、あなたは、禅相を専注する定を育成することに重点を置くことによって、心をして、平静になるようにしなければならない。

このことは、ソーナ長老の例で説明ができる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-46につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

是誰庵のひとやすみ~私は本当にいないのか?

 ゴータマ仏陀は、六年の修行の後、インド全土に流通していた婆羅門教(現在のヒンズー教)を否定して、それまで誰も気が付かなかった、ある種ブラックホールみたいな、物質と精神(有情と心と物質)の無常性・苦性・無我性を宣揚しました。

で、「無我」というと、<私なんて、いないのだ>と解釈する人がいますが、これには、要注意です。

瞑想・座禅の修行をして、自分の心と身体の状況を緻密に追いかけて観察することが出来るようになると、特に、少々の隙も許さず、絶え間なく、不断に観る事ができるようになると、たとえば、身体のどこかが悪い場合、身体の具合が悪い事は分かっても、<私(の体調)が悪い>とは思わないでいられることがあります。

(予備定から安止定までの色々なレベルの)定に入って、絶え間なく、ずっと痛みだけを追いかけて観察し続けていると、<私意識><俺様意識>が、出てこないのです。

で、これをもって<私はいないのだ>と断定するのは、大変に危険です(なぜなら、この立場は、虚無思想へとつながっていく可能性があるからです)。

私は20年間、中国語で書かれたテーラワーダ系の仏教書を日本語に翻訳していますが、一度だって「私はいない」などと翻訳できるような中国語、文脈に出会ったことはありません。

無我には、<有為法は縁によって生起する>と、<名・色法はコントロールできない。故に、名と色は、自分のものではない>という、二種類の意味が含まれています(含義は、もっとあるかも知れません)。

名法は、心と心所(心と一緒に立ち上がる心の属性)の事で、色法は身体の事ですが、なぜ「名・色は自分のものではない」と言うかというと、インド人は、己のコントロールできないもの、変化するものを「私のものではない」と表現する言語上の習慣があるからで、ゴータマ仏陀が「妻や子は私のものではない」と言う時、一つは、自分は既に出家したからという事と、もう一つは、変化するものは所有できないという、二つの事柄を言っている事は、押さえておくべきでしょう。

ではなぜ、心と身体は、己のものではないのかと言えば、名・色法の究極、すなわち、身体と心を、禅定に入って、素粒子レベル(実際には素粒子よりもう少し大きい色聚を観察する)で観察すると、それらは縁によって、刹那に生・滅しており、そして、それらの生・滅を止める手立てはなく、ただ生じるに任せ、滅するにまかせるより仕方がない、からです。

パオ・セヤドーの著書『顕正法眼』でも、<我々は、究極法は無常・苦・無我であると知るとき、それを制御できる人、または、それを制御できる自我は、ない事が知れる>と書かれています(No5-40 参照)。

マクロの身体とマクロレベルの思考作用は、ある程度コントロールできるけれども、ミクロの、素粒子レベルの身体と名法をコントロールできる、そのような人間、そのような自我はない。

しかし、注意してもらいたいのは、仏陀は「私はいない」とは、言っていない事です。

では「私はいるのか?」と問えば、それは無記です。

なぜ無記かと言えば、滅尽定に入って、涅槃(五蘊の滅尽)を証すれば、その理由が分かると思います。

「私はいるかどうか」は、「輪廻はあるかないか」と同じく、ある・ない論争をしても無意味なものの一つです。

修行して、観察して、自ら体験する。

その時、言論は止む。

追記:無我は、婆羅門教の真我を否定した言葉として使用されることもあります(己は、アートマンではない=not アートマン=ア・ナッタ=無我または非我。)中村元先生とその系列の先生方は非我説です(宮元啓一先生等)。

 

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-44

たとえば、もし、あなたもまた、ヴァッカリ長老のように、仏陀への信心が強すぎる時、あなたは、仏陀の特徴に注目することをやめ、仏陀の究極名色法を観じ、その後に、それらを無常・苦・無我として、観ずるべきである。

これは、諸法の自性を省察する一つの方法である。

もし、あなたがこのように作意するならば、あなたの慧根は、強くて力のあるものに変化し、信根は徐々に弱くなる。

慧根が強くなると、信根は弱くなる;

信根が強くなると、慧根は弱くなる。

これら(+の現象)は、それらの本質である。

故に、あなたは、それらのバランスを取ることに、チャレンジしなければならない。

今、あなたは安般念を修行している。

もし、あなたの信根が強くて、その他のものが弱い時、あなたは、息の中の四界を観察するべきである。

定力が徐々に強くなる時、あなたは、息の中の小さな微粒子を見ることができる。この時、あなたは、一粒の微粒子ごとの内の、究極色法を識別しなければならない。

一粒ごとの微粒子には、9種類の究極色法がある:すなわち、地界、水界、火界、風界、色彩、香、味、食素と呼吸音である。

あなたは、徐々に、それらを無常・苦・無我と見做すようにしなければならない。

もし、このようにできれば、あなたの慧根は強化され、信根は弱まるであろう。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(1-45につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5‐43

ヴァッカリ長老は、元々は、舎衛城にいた婆羅門で、三つのヴェーダに精通していた。

初めて仏陀を見たとき、彼は、長時間、飽きもせず仏陀を見続け、仏陀が行くところへは、どこへでも付いて行った。

更に仏陀に近づこうとして、彼は、出家して比丘になった。

食事の時と、沐浴の時以外のすべての時間において、彼は仏陀を想い続けた。

ある日、仏陀は彼に言った:

「もう十分だ、ヴァッカリ。

君はなぜ、この不浄なる身体を見たいのか?

慧眼で法(聖道、聖果と涅槃)を見る人は、私を見る;

私を見る者は、法を見る。

ヴァッカリ。

人は、法を見る事によって私を見、私を見ることによって、法を見るのだ。」

たとえこのようであっても、ヴァッカリ長老は、仏陀から離れようとはしなかった。

雨安居の最後の日、仏陀は彼に(+自分から)離れるように命じた。

彼は非常に傷心して、霊鷲山に行って、禅の修行をしたが、仏陀に対する過剰な信心によって、彼は、聖道智を証悟することができなかった。

仏陀は、彼に、五根をバランスする、特別な方法を教えた。

長老は、仏陀の教えた方法によって精進し、順序良く観禅の修行をしたため、阿羅漢果を証得したのである。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-44につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-42

8-6-2-6 五根のバランス

これから、私は、安般念似相に専注する時、如何にして五根をバランスさせるのかを、説明する。

諸根のバランスを保持するという事は、信、精進、念、定、慧の五根をバランスするという事である。

もし、禅の修行者が、信の対象に対して、過大な信心(ここで言う、この対象とは、安般念業処の事である)がある時、信根による決定(勝解=理解、知ること)の作用が強すぎて、慧根が不鮮明になり、そのことで、残りの精進根、念根及び定根の力もまた弱くなる。

そうすると、精進根は相応する名法を策励させること、それらを似相において、作用させる事を保持することが出来なくなり;念根は、似相を憶念するという作用を確立することが出来なくなり;定根は、心を似相に安住させ、(+心を)散乱させないという作用を実行できなくなり;慧根もまた、似相を見通す(=透視する)作用を実行できなくなる。

というのも、慧根は、似相を知ることができなくなり、そのことで、信根を支えることができなくなり、そのため、信根もまた、弱くなってしまうのである。

この状況においては、諸法の自性(dhamma-sabhāva-vekkhaṇa)を省察する事を通して、または信根に注目しない事を通して、信根が強くなりすぎないようにする方式によって、信根を変化させるのが良い。

このことは、ヴァッカリ長老(Vakkali Thera)の例で、説明ができる。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-43につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>