Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)-5-50

8-6-3 禅相の(巧みな)掌握

禅相を巧みに掌握するとは:

(一)安般念、またはその他の業処を通して、未だ生じた事のない心一境性の相(禅相)を生起させる事に、巧みであること;

(二)すでに生起した禅相を、育成するのに巧みな事;

(三)育成して、すでに獲得した禅相を、保護する事に、巧みな事。

以下で説明するのは、最後の項目である。

8-6-4 心が精進するべき時に精進する事

もし、禅の修行者が、安般念によって、ジャーナに到達したいと思っている時、七覚支をバランスする事は非常に重要である。

七覚支とは:

1, 念覚支(sati):似相を明記し(=覚えている事)、かつ、持続的に、似相を識別する;

2, 択法覚支(dhammavicaya):似相について、徹底的に理解する;

3, 精進覚支(vīriya):似相において、諸々の覚支を統合する事、バランスを取る事、に努力する。特に、択法覚支と精進覚支自体を、強化することに努力する;

4, 喜覚支(pīti):似相を体験する時、心中に歓喜があること;

5、軽安覚支(passaddhi):(+心が)似相を対象とした時、心と心所が平静であること;

6, 定覚支(samādhi):似相に対して、一心に専注する事(心一境性);

7, 捨覚支(upekkhā):心の平等性、心をして興奮させない事、または専注している似相から退出しない事。  

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-51につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-9

第二に、「落ち着いていて、優しさ(=柔和)に熟練している」とは、どのような事か?

どのようにすれば、平静と柔和に到達できるのか?

(+もし)我々に、自在な心があり、(+その心が)何かの事実に「接触」する時、我々は軽々と、一切の変化ーーそれが良い事であっても、悪い事であっても、良くも悪くもない事であってもーー受け入れることができる。

これが、あらゆる場面において、我々の心が、常に平静で、抵抗しない、反発しない、反撃しないでいられる、という理由である。

故に、止禅の修習におけるキーポイントは、「自在」である。

しかし、忘れてはならないのは、「接触」という二文字である!

というのも、あなたが、何等の事実にも、何等の境界にも接触しない時、あなた(+の心)は、平静であるように見えるけれども、しかし、これは単なる漠然(+たる心情)にすぎず、真実の平静ではない。

真実の平静とは、我々をして、自在に、事実に「接触」せしめ、同時に「すべてを受容」できる事である。

これが、我々がなぜ「自在に・体験する事」という二つの項目を重視するのか、という理由である。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-10につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

是誰庵のひとやすみ~安般念と正念正知

安般念は、インドの古い言葉で

<アーナ・パーナ・サティ>と言われているものを、昔の中国人が、漢語に翻訳したものです。

ですから、音訳で安那・般那・念ともいい、意訳では、出入息念とも、言います。

文字通り、己自身の鼻孔から出入りする息を観察する、瞑想法です。

世の中には、色々な瞑想法があるようです。

私は日本式内観、ラべリングするマハーシ、身体の感覚を観察するゴエンカ式ヴィパサナ、密教の観想に取り組んだことがあります。

念仏系は、私自身は、日本の浄土宗には縁がなく、なぜ浄土宗が<念仏(+号)するだけでよいのだ>と強調するのかよく理解できませんが、歴史的経緯で言うと、念仏(+号)は、仏の徳を想って修行する<仏随念>の変形ではないか、と言われています。

安般念は、微細な息の出入りを、一瞬たりとも(?)見逃さないで、追い続けることによって、集中力と観察力を同時に育成しよう、というものです。

息を観ることに習熟するのは、良い事です。

我々は、通常、無意識に、息を吸ったり吐いたりしていますが、意識的にも、吸ったり吐いたりできるため、息は、表層意識と潜在意識を繋ぐ架け橋になることが、できるからです。

あなたの潜在意識、仏法で言う有分心は、一体どのような様子をしているでしょうか?

表層意識と潜在意識(有分心)への理解が進めば、やがては、<観る者と観られる者>という、意識における最大の謎の解明に、チャレンジすることができるでしょう。

ただ、皆さんも気づかれているように、瞑想のテクニックだけ追い求めても、いつか壁にぶつかりますし、今足元にある人生自体が、うまくいかない事が多いです。そのためには、正念正知でもって、己の心のバランスを整えるのが良いと思います。安般念と正念正知が、お互いに支え合う関係になれば、一安心です。

朝夕、落ち着いた時間に安般念に取り組み、仕事や家事に取り組むときには、自分の心が正念正知であるかどうか、を観察するようにすれば、今ある生活を大事にしながら、悟りへの道を歩むことが出来ると思います。

 

 

 

 

是誰庵のひとやすみ~回頭是岸

台湾のお寺に行くと、山門によく<回頭是岸>と書いた扁額が掲げられています。

<彼>という文字を足して<回頭是彼岸>と言えば、はは~、と納得される方も多いと思います。

仏教徒は、一応、涅槃(彼岸)を目指すというのが、基本のセオリーとなっています(無住涅槃と言って、涅槃によりも、娑婆にいて、人々を救う方が好き、という人もいて、それはそれぞれの方々の好みの問題で、まぁ、どちらでもいいのですが。なお、涅槃とは、心に煩悩のない状態の事を言い、娑婆で生きるにしても、役に立ちます)。

で、涅槃と言うと、何かとんでもない、宇宙の彼方、遠い遠い場所を目指して、修練の旅をするようなイメージですが・・・。

<回頭是岸>とは、実は、頭をめぐらして、後ろを振り返れば、そこが帰るべき岸辺だった、別に、苦難の旅に出ることもなかったワイ、という意味ですね。

また、たとえば、監獄へ入れられた囚人が、脱獄したくて、夜中に窓に架けられた鉄格子を密かに削っていて、ふと、後ろを見たら、自分が押しこめられた(と思っていた)入口のドアは、入って来た時と同じように、開いていた・・・という、そんなイメージ(入口は、出口でもあるという、パラドクス)。

ま、だからといって、修行しないでいい、という訳でもなく・・・、今日もコツコツ、安般念。

 

 

是誰庵のひとやすみ~賢い子ども

先日、ある小さな集会に出ました。

雑談で「仕事が忙しい時に、それに上乗せするように、アレコレ指示されると腹が立つ」というお話が、ありました。

よく分かります、よく分かります。

以前の私もそうでした。

でも、息を観る瞑想(安般念瞑想)をウン十年やってきて、ようやくこの辺の消息が、分かるようになりました。

ここに真っ赤に燃えたストーブがあります。

小さな子供は、それが熱い事を知らずに、触りに行きます。

賢い子どもは、触った途端に「アチッ」と言いながら、すぐに手を放します。「ママ、アチカッタ」それで終わり、何事もなかったかのように、好きなおもちゃで遊び続けます。

あまり賢くない子供は、ずっとストーブを触り続け、大やけどをしてからワンワン泣きます。親は、子を抱いて、病院へひた走りです。

私たちは、何か嫌なことを見たり、聞いたりすると、心が混乱します。

そして、混乱した心のまま、心は、その対象に張り付いてしまうのです。そして、混乱は混乱を呼び・・・、あなたは疲れ、同僚は不機嫌になり、仕事は減らず・・・私たちは、賢くない子供のようです。

息を観る瞑想を続けていると、対象に対して、それがなんであるか、気がつくタイミングが速くなり、かつ、「コレハアブナイゾ」と予感する力が、鋭くなります(予言とか、占いとは関係がないですよ)。

これが正念正知です。

そして、「コレハアブナイゾ」と思ったら、すたこら逃げる、手放すのが、良いのです。

そして、すばやく己の本分に戻り、<今・ここ>において、頭脳明晰、余裕綽々、優先順位を決め、なすべきことをなすのです(仕事から逃げるのではなくて、混乱した心を、手放すのです。お間違いなく)。

手放す力、逃げる力もまた、同じく安般念瞑想で鍛えることができます。

タイの僧侶、アーチャン・チャーは、例え話が上手でしたが、彼は<正念正知>と<手放す>をセットにして、「危ないと思ったら、亀のように六個の器官を引っ込めよ」と言っていました。

これは「六根門を守る」ともいいます。

みなさんも、朝夕瞑想をして、賢い子どもになれるよう、チャレンジしてみて下さい。

追記:六根とは、耳、目、舌、鼻、身体、意の六つです。

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)2-8

二、正行

正行(定の修習における心の用い方・法則)

ーー如実と自在

渇愛に征服された人、彼の行道は艱難辛苦(苦行道)であり;渇愛に征服されない人、彼の行道は容易(楽行道)である。」

「落ち着きと優しさに熟練しない人、彼の行道は艱難辛苦であり;落ち着きと優しさに熟練する人、彼の行道は容易(楽行道)である。」

《清浄道論・第三章》

この段階において修行する時、我々は、自分がどれほど長く座っていられるかを、過度に強調するべきではない。そして、以下の二項目について点検してみるのが良い:

一番目に、我々は、渇愛の心で修行していないだろうか?(+を点検する)。

渇愛の心で修行するのであれば、それは、世俗で活動しているのと変わらないことになる。

たとえば:連続して何日もTVのドラマを見続けたり、授業をさぼってゲームセンターで遊んで、多くの問題を引き起こしたり・・・これらの活動は、我々に楽しみを齎すことが出来るけれども、しかし、この種の楽しみは「邪楽」である。というのも、それは渇愛を伴う楽しみであるから。

《アビダンマ論》によると、二つのグループの心は、楽しみを伴うものである;一番目のグループは善で、もう一つのグループは不善である。

不善な楽しみとは、必ず、貪愛(すなわち、渇愛)が伴っており、ある時には邪見(たとえば、我見)または驕慢さえも、伴っている時がある。

善の楽しみは、貪愛を伴わず、信心、正念、無貪、無瞋、中捨などのポジティブな要因が、随伴しているものである。

渇愛の心で修行しない事を、如実に修行する、という:

一センチは一センチ、二センチは二センチ。呼吸が長い時、呼吸が長いと知り、呼吸が短い時、呼吸が短いと知る。これは言うだけなら簡単だが、実際には非常に奥深いもので、言うは易く行うは難い。

我々がよく犯す間違いは、現状に不満を鳴らす事である;我々は、呼吸が短い時、不満足な気持ちから、呼吸が長くならないかと試してみたりする;また、呼吸が長い時、我々は、忍耐心がないために、それを短くならないかと試してみたりする。

これら故意に、または習慣的に(+対象を)コントロールしようとするのは、渇愛によるものである。故に、ここにおいては、渇愛の無いことを「如実」と呼ぶ。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(2-9につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

パオ・セヤドー講述「顕正法眼」(翻訳文)~5-49

また、信と慧とを、バランスしなければならない。

止禅の業処を修習しようとする修行者にとって、強固な確信は、有益である。

というのも、多少信へと偏向した心は、安止(+定)へと導くことができるから。

もし人が、「安般似相に専注する定力を育成したならば、私は必ずジャーナに到達することができる」と思うならば、信の心と、当該の禅相に専注することによって、彼は必ずや、ジャーナを証得するであろう。

というのも、ジャーナとは、主に、定力に依存するものであるから。

定と慧のバランスも考慮されるべきである。

止禅の業処を修行する者は、強固な一境性が必要である。というのも、彼は、強固な一境性によって、安止に到達するのであるから。

観禅を修行する者は、強固な慧が必要である。というのも、彼は強固な慧を通して、諸々の相を透視するのであるから。

定と慧がバランスする時、禅の修行者はまた、安止に到達する。

観禅の修行者にとって、慧根は非常に有益である。というのも、慧根が強い時、彼は三相を透視することができ、(+それによって)無常・苦・無我の三相の智慧を、獲得することができるのであるから。

定と慧がバランスする時にのみ、世間禅(lokiya-jhāna)は、生起することができる。

仏陀は、定と慧の両方を、並行して修行しなければならない、と教えた。

というのも、出世間禅(lokuttara-jhāna)もまた、定と慧のバランスによってのみ、生起するのであるから。

信と慧のバランスであっても、定と精進のバランスであっても、定と慧のバランスであっても、念根は、必ず必要とされる。

念根は、すべての状況において適用される。

というのも、念は心を保護し、心をして、強すぎる信、精進または慧によって、掉挙に陥らせたり、強すぎる定によて、怠惰に陥らせたりすることを、防ぐことができるのであるから。

故に、すべての状況において、念は必要である。それはすべてのスープには、塩が必要であるように、また国王のすべての政務は、宰相によって処理されるが如くに。

故に、古い注釈において、「世尊は言う:『念は、どのような業処においても必要である』」と述べられているのである。

なぜか?

というのも、修行する時、念は、心の拠り所であり、保護者でも、あるからである。

念は拠り所というのは、それは心を助けて、心をして、以前において到達したことのない、以前において知らなかった、高度な境地に到達せしめるからである;

もし念がなければ、心はいかなる超凡の境地、非凡な境地にも、到達することはできない。

念は心を保護できるし、禅の修行における対象を見失わないようにすることが、できる。

これが、なぜ、禅の修行者が、以下の事が実践出来るのか、という理由である。

すなわち、観智でもって念を識別する時点で、彼が見ることになる念の現象は;それは、修行において専注している対象を保護する事ができる上に、また、禅の修行者の心を保護することができる(+ということである)。

もし、念が欠けている時、禅の修行者は己の心を策励する事も、制御する事もできない。

これが、なぜ、仏陀が、念は、一切の状況において、応用、適用することができる、と述べた理由である。

<《清浄道論》第四章、第49節;《大疏鈔》第一冊、参照の事>。

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。(5-50につづく)

Idaṃ me puññaṃ nibbānassa paccayo hotu。 

★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。

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<パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>