Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-14

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

一、普遍的に適用される業処

(一)慈愛

1、サンガに慈愛を送る。一緒に住む人々に、慈愛を送る。このように実践すれば、お互いに相和して暮らせる。

2、彼が以前、托鉢をした事のある村の指導的人物に慈愛を送る。このようにすれば、彼の生活必需品は、善意の指導的人物の合法的な保護を得る事ができる。

3、周辺の人々に慈愛を送る。このようにすれば、人々は彼を信頼し、彼に対して、敵意を生じない。

4、一切の衆生に慈愛を送る。このようにすれば、彼はどこに行こうとも、何事にも順調で阻害されることがない。

《清浄道論・第三章・第58段》

(二)死随念

1、彼は正当でない追求を、断じ除く。

2、彼は警戒心を増強し、執着なく生活する。

《清浄道論・第三章・第58段》

(三)不浄想(たとえば、骨想)

不浄想(=不浄観)を修習するが故に、彼の心において、天界の享楽に対する貪愛さえも、生起しない。

《清浄道論・第三章・第58段》

(四)仏、法、僧随

歓喜の心が激発される。

《清浄道論・第三章・第27段》

(3-15につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-13

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

良師の止禅における役割

質問:良師の、止禅における役割とは何か?

答え:良師の役割とは、二つの方面において、止禅業処を(+決定して)与える事である。

故に彼は、「業処の授与者」と言われる。

止禅の段階において、良師は、学生に二つの方面において、業処を与える。どのような方面か?

《清浄道論・第三章・第57段》において、

(一)普遍的に適用される業処と、

(二)(個人的な)特別の業処、が説かれている。

(注:以下の翻訳文★部分は、原文では表形式。本hatenaブログでは、箇条書形式を採用)

★普遍的に適用される業処(一切処業処)(第59段)

1、どこにおいても必要なもの(たとえば、外部からの傷害を防ぐために、防護壁を築くようなもの)。

2、それらは非常に役に立ち、場合によっては、修行する主な業処とすることもできる。

3、たとえば、慈愛、死随念、不浄観、仏随念、法随念、僧随念。

★(個人的な)特別の業処(応用業処)(第60段)

1、40種類の業処の内、個別の人々の性格に合致した業処。

2、それは「特別な」業処である。というのも、修行者は常にそれを実践しなければならないし、また、それは、修行者の境地が日々進歩する所の近因である。

3、40種類の業処の中の任意の一種。

《清浄道論・第三章》

(3-14につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-12

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

◆結論

(一)良師の重要性とは、以下(+の要素)を含む:

1、良師について学ぶ時にのみ、あなたは己自身の、限界のある思想の枠組みから、抜け出すことができる。

2、実際に修行を開始した時、多くの複雑な問題に遭遇する。我々が、これらの問題を解決するにおいて、良師の支援が必要である。

3、(+問題の解決方法を)無駄に研究する時間を節約できる。

4、良師は、法の化身である;良師について学ぶことは、最も効率的な学習方式である。

5、尊敬と信心(=信頼)は、学習する時の足掛かり、スプリングボードである。

6、もし、あなたが良師に密着して行持するならば、証悟をえられるだけでなく、あなたは、彼と似た、善くて巧みな風格を打ち立てることができ、未来において、他人を支援できる人間になれる。

(3-13につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-11

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

4、事実上、上記に述べた事は、最も快速で、最も有効な、学習方法である。

これは、ちょうどヤクの容貌を研究しようとする時、本に書かれている文言を読んだり、または、そこに描かれている絵図を見るが、そうした時、我々は、非常に断片的な概念を得ることしかできない。

また、ヤクの模型を見ることを通して、我々は心内のイメージを得ることはできる。

そして、自ら動物園に行って、現実のヤクをみれば、ヤクがどのような顔をしているか、を完全に知ることができるが、これが最も早く、最も明確(+にヤクの容貌を知る)方法である。

故に、あなたが良師に従って学ぶ時、あなたは経典に従って、段階的に、断片的に学ぶのではなくて、法の化身ーー良師に従って学んでいるのだと言える。

5、あなたが真正にある人を尊敬し、その人に対して信心(=信頼)がある時、意識的にも、無意識的にも、あなたは彼の様子をなぞりつつある。

こういうことであるから、もし、あなたに、すでに証悟した教師がいて、かつ、あなたが、真心をもって、彼から、彼の修道における行いを学んでいるのであれば、あなたもまた、証悟することができる。

6、証悟が得られるだけでなく、もし、あなたが彼に従って、彼に密着して修行するならば、あなたは必然的に、彼と非常に似通った、善くて巧みな風格を得ることができるであろう。

上に述べた事は、仏陀が経典の中で述べているように、なぜ、シャーリプトラ尊者の弟子たちは、皆大智慧者であり、モッガラーナ尊者の弟子たちは、皆大神通者であるのか、という理由でもある。

(3-12につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

パオ・セヤドー講述「顕正法蔵」(翻訳文)5-72

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

8-6-6 心が策励されるべき時に心を策励する

彼は如何にして、心が策励されるべき時に、心を策励するのか?

心が、智慧の力が弱いために、または安寧の楽を証得することが出来ないがために、倦怠を感じる時、彼は恐怖心を策励できる、八つの原因を思惟する事を通して、心を策励するが、それはすなわち、生・老・病・死、四悪道の苦、過去の輪廻の苦、未来の輪廻の苦、今世において食べ物を探し求める苦を思惟する事である。

彼はまた、三宝の長所を随念する事を通して、信心を策励することもできる。

これが、彼が如何にして、心が策励されるべき時に、心を策励するのかに関する説明である。

(5-73につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-10

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

2、修行とは、我々が想像しているような、そのような簡単なものではない。

書物はただ単に、一般的な指導方針を提供しているに過ぎない。

一たび、我々が実際に修行を開始すると、非常に多くの、複雑な問題に遭遇する。

これらの問題は、ただ単に、本に書いてある知識を頼りに解決できるものではなく、良き師に助けてもらいながら、解決しなければならないものである。

故に、非常に良い本であっても、良師の代わりにはなりえない。

これが、なぜ、色々な仕事・業種において成功したいのであれば、必ずや、本からでは学べない各種の技能を、高名な師の下において、その学生となって学ばなければならないのか、という理由である。

3、古の人は言う:

「欲知山上路、須問過来人(=山の奥の道を知りたければ、その道を通って来た人に問え)」

良師に従って学ぶことは、あなたに多くの時間の節約を齎す。あなたの教師自身が、多くの間違いを経験してきており、多くの困難を克服してきているが故に、もうすでに解決策がある陳腐な問題に関しては、あなたは自ら、改めて解決方法などを研究する必要は、ない。

その上、あなたが真剣に学ぶならば、あなたは多くの、不必要な混乱から解放されることができる。(3-11につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)3-9

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

良師の重要性

多くの人々は、彼らの歩むべき、心霊上の修行の道における教師の重要性を、しばしば低く見積もりすぎている。

彼らは、決して、時間と精神及び努力を払って、良き師を探し求めようとは、しない。

彼らは、教師とは、一冊の本のようであると見做しているが、もし、色々な事柄の、そのすべてが、すでに本の中に書かれているのならば、なぜ苦労して良き師を探し求める必要があるのだろうか(+と彼らは思っている)。

そうであるならば、我々は、直接本から学べばよいのではないか?(+と彼らは思っているのである。)

ある日、アーナンダ尊者は、世尊に言った:

「尊者、これは梵行の半分です。それはすなわち:善き友、善き朋友、善き仲間(+が傍にいる事)。」

(世尊は言う:)「そうではない、アーナンダ、そうではない、アーナンダ。それは梵行の全部である。それはすなわち、善き友、善き朋友、善き仲間・・・」

≪相応部・45道相応・第二経≫

なぜ、良い師がこれほどに重要であるのか?

それは:

1、人々はよく以下のように言う:

「私は経典に従って学んでいる。ということは、仏陀に従って学んでいるということであって、これで十分ではないか?」

表面上から見れば、あなたは仏陀に従って学んでいるように見えるが、しかし、あなたが経典を読んでいる時、あなたが理解できるのは、己自身が理解できるレベル(+の内容)でしか過ぎない。

故に、あなたが理解できる仏陀とは、あなたの経典への理解のレベルに影響されて、真正の仏陀とは、ほど遠いものである、ということになる。

しかし、もしあなたが、あなたより智慧(+のレベル)が高く、あなたより経典への理解が深い人に付いて学ぶことが出来るならば、あなたは、全く正反対の、しかし盤石な根拠のある観点に立って、経典を理解し直すことができるという事を、発見するに違いなく、そのことによって、あなたは更に深く仏陀を理解し、真正なる仏陀に、更に近づくことができるようになる。

こうしたことから、良師に付いて学ぶことによって、あなたは、あなたの有限の思想の型枠の中から飛び出すことができる(+のだという事が分かるのである)。

(3-10につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ

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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>