Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

☆「掌中の葉」(翻訳文)4-6

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

性行の同分(=共通、同等)と区分

この六種類の性行において、信行者と貪行者は同分、覚行者と瞋行者は同分、尋行者と痴行者は同分である。

《清浄道論・第三章・第75、76、77段》

性行(性格と行い)の同分と区分は、十分に考察するに値する事柄である。

己の性行を確定した後、あなたは修行の道筋において、自分が落ち込みやすい盲点・欠点を知ることができ、己自身の性行上の長所だけ、重点的に修行することがなくなる。

あなたが、己の性行の長所を応用して修行する時、あなたは、己の性行上の偏差を、知覚することができる。

たとえば、あなたは一人の信行者であるとすると、あなたは常々、信念によって事を取り仕切ろうとする。

あなたは、己の信念が、容易に貪念に偏向する事に、警戒する必要がある。

また、貪念は、信念に類似した顔つきをして、出現することがある。あなたが警戒を忘れる時、貪念は油然として沸き起こる。

ある種の人々は、己自身は、いかなる時においても、ただ信念のみに頼って、事柄を処理することができると思っているが、最終的に、貪念が原因で、多くの苦痛が生じて来た時でさえも、自分が、どこで間違えたのかを、知ることがない。

たとえば、仏陀の時代に、舎衛城に住んでいた婆羅門で、名をヴァッカリ(Vakkali)という者がいた。

ある日、彼は、仏陀が町で、托鉢するのを見た。彼は、仏陀の聖潔で、静かで、落ち着いた様子に引き付けられた。仏陀に対する敬慕の念から、彼は更に、仏陀に近づきたいが為に、サンガに参加したいと表明した。

出家して比丘になった後、彼は常に、仏陀の側にいて、比丘が実践しなければならない職責と、禅の修行を、疎かにした。

ここにおいて、信念は徐々に、貪念に変化した。

仏陀はその為に、彼に警告した。

「ヴァッカリ、あなたは、このように私に近づくが、私に注目しても無益である。あなたは定の修習をしなければならない。というのも、法を見る者だけが、私を見るのであるが故に。

仏法を理解し、体得できない人は、私を『見ていない』のである。故に、あなたは、私の視野の内から、離れなければならない。」

仏陀がこう言うのを聞いて、ヴァッカリは非常に意気消沈し、耐える事ができなかった。

彼は精舎から離れ、ギッジハクトゥという峰に登り、そこから飛び降りて、自殺しようとした。

この時、仏陀はヴァッカリの内心の苦痛と、喪失感を知ると同時に、自殺する事によって、聖果を証悟する機会を失ってしまう事も知った。

仏陀は光を放って、彼の側に、仏陀がいるように感じる様、取り計らった。ヴァッカリは、果たして、即刻、信念に似た貪念の雑染を手放し、哀悼を手放し、瞬時に歓喜を感じ、士気が奮い立った。

世尊は言う:「仏法に対して歓喜の心があり、信心が十分な比丘は、涅槃ーー軽安、無為、快楽(=楽しさ)を証悟する。」≪法句経第138段≫

(4-7につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)4-5

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

【性行の原因】

(訳者注:

以下のからまでの日本語訳は、原文では表になっています。hatenaの画面では、表の作成ができませんので、箇条書きとしました。)

(A)貪行者

(1)宿作の因ーー宿世における良き加行と、多くの浄業の実践によるか、または、天上において死んだ後、この世に生まれた者。

(2)界の因ーー四界が平等な者は、貪行者になる。

(3)病素の原因ーー痰が増長する者は、貪行者になり、風が増長する者は、痴行者になる。

(B)瞋行者

(1)宿作の因ーー宿世において、多く、斬・殺・縛・怨等の行為をした者、または地獄及び龍界において死んだあと、この世に生まれた者は、瞋行者になる。

(2)界の因ーーその他の二界(火界・風界)が強い者は、瞋行者になる。

(3)病素の原因ーー(説明空白)

(C)痴行者

(1)宿作の因ーー宿世において、多く飲酒し、また多聞でなく、質問や究する事に欠けるか、または畜生界において死んだ後、この世に生まれた者は、痴行者になる。

(2)界の因ーー地界と水界の二界が重たい者は、痴行者になる。

(3)病素の原因ーー風が増長する者は痴行者になり;痰が増長する者は貪行者になる。★

 

(4)宿因に依る決定:

優娑曇結頓の説によると:

「これら有情は、宿因によって決定されて、貪の増盛(=益々増える事)、瞋の増盛、痴の増盛、無貪の増盛、無瞋の増盛、無痴の増盛がある。」

行為を行う時、貪・瞋・痴の内の、どれが比較的強く出現するかによって、貪の人であったり、瞋の人であったり、痴の人であったりする。

(P130、図表省略)

このことから、各人には、起心動念する時、往々にして、貪・瞋・痴(三不善因)、無貪・無瞋・無痴(三善因)の出現する頻度が、それぞれに異なり、そのために、それぞれ各人が、性行において、異なる強度・傾向を持つようになるのである。

たとえば、貪念は常々ないものの、瞋心、痴念のふたつが比較的強いのであれば、「煩悩少なく、瞋恚あり、慧が鈍い」という個性になる。

このことから、瞋行者は、往々にして、貪行者であるか、または痴行者でありながら、瞋が比較的強いだけ、という場合が考えられる。

これが、宿因及び、行為の時の習性が影響して、そのよう(+な傾向を持つ人)になる、という説明である。

◆結論:

性行を形成する原因は、主に以下の、四種類である:

1、宿作の因。

2、界の因。

3、病素の原因。 

4、宿因による決定。(4-6につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)4-4

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

簡潔に言えば、もし、一人の修行者が、性行(=性格と行い)という、この課題について、深く思考することができるならば、彼は、修行に関して、多くの迷路を歩かなくて済むし、非常に多くの過失を犯す事も、免れ得るだろう。

ある種の修行者は、己に適合しない修行道場に来ると、大いに口業を造す。通常、彼らは、それらの物事に対して納得がいかず、主催者と衝突し、または修行仲間に対して、何事か誤解して、争う。

その主要な原因は、外部的な因・縁と、己の性行が、余りに違いが、ありすぎる為である。

彼は修道の過程において、些かの善業を蓄積するけれども、しかし、体験的悟りに関しては、あまり利益が得られない。

最終的に、彼の心中には、諸々の不満が惹起され、(+他者への)誹謗という口業を、残すことになる。

こうした事から、あなたが、どこかの道場へ行って修行したいと思う時、または、誰か善知識の元へ訪ねて行きたいと思う時、あなたは、まずもって、性行という、このキーポイントを考慮した方が良いのである。

このようにすれば、あなたは修行の道筋において、非常に多くの迷路を、歩まなくても済むのである。

◆結論:

(一)性行は六種類ある。すなわち、貪行、瞋行、痴行、信行、覚行、尋行である。

(二)修行の時、性行という課題を重視することによって、我々は:

1、己に見合った修行形式、パターンを理解することができる。

2、諸々の異なった、禅の修行方式に出会っても、混乱しない。

3、(+己自身が)ある種の禅の修法を実践しているからといって、その他の禅の法門を批判することがない。

4、修行の道筋において、非常に多くの迷路を、歩まなくて済む。

性行の原因

何が性行の原因か?

《清浄道論》の記載によると、性行を形成する主要な原因は、四種類である、すなわち:

(1)宿作の因

(2)界の因

(3)病素の原因

(4)宿因決定。

[《清浄道論》「六種性行」の瞋性行研究 ] の一文を、整理すると以下のようになる。

(4-5につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

☆「掌中の葉」(翻訳文)4-3

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

仏陀は言う:)「加拉瑪族人よ。伝統であるから、または伝承であるから、または聞いた所による、または典籍に記載されているから、または理屈にあっているから、または推論により、または合理的だと思えるから、または考えた後受け入れた見解であるから、または説明者に能力がありそうだとか、または『この沙門は、我々の教師である』と思って、すぐに信じてはいけない。あなた方が、自ら『これらの法は、不善である、過失がある、智者が指弾するものである、受持や実践をした後、傷害や苦痛が齎される』と分かった時、あなた方は、それらを捨棄しなければならない。」

「加拉瑪族人よ。あなた方はどう思うか?貪欲、瞋恚と恨み、愚痴(=愚かさと無知)が一人の人間の心の中に生起する時、彼に幸福と利益を齎すだろうか?それとも傷害を齎すだろうか?」

「傷害を齎します。尊者。」・・・

「これらの法は善であろうか?または不善であろうか?」

「不善です。」

「過失のあるものであろうか?過失のないものであろうか?」

「過失のあるものです。」

「智者が指弾するものであろうか?または、称賛するものであろうか?」

「智者が指弾するものです。」

「まさにこの理由によって、私は言うのである:伝統であるから、または伝承であるから、または聞いた所による、または典籍に記載されているから、または理屈にあっているから、または推論により、または合理的だと思えるから、または考えた後受け入れた見解であるとか、または説明者に能力がありそうだとか、または『この沙門は、我々の教師である』と思って、すぐに信じてはいけない、と・・・

加拉瑪族人よ。あなた方はどう思うか?不貪欲、不瞋恚と恨みのない時、不愚痴(=愚かさと無知のないさま)が一人の人間の心の中に生起する時、彼に幸福と利益を齎すだろうか?それとも傷害を齎すだろうか?」

「幸福と利益を齎します。尊者。」・・・

「これらの法は善であろうか?または不善であろうか?」

「善です。」

「過失のあるものであろうか?過失のないものであろうか?」

「過失のないものです。」

「智者が指弾するものであろうか?または、称賛するものであろうか?」

「智者が称賛するものです。」

「まさにこの理由によって、私は言うのである:伝統であるから、または伝承であるから、または聞いた所による、または典籍に記載されているから、または理屈にあっているから、または推論により、または合理的だと思えるから、または考えた後受け入れた見解であるとか、または説明者に能力がありそうだとか、または『この沙門は、我々の教師である』と思って、すぐに信じてはいけない、と・・・≪増支部・三法集・第65経≫

(4-4につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

☆「掌中の葉」(翻訳文)4-2

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

これが、なぜ、通常の場面において、大部分の禅師が、ただ、己自身が自ら証悟した(+修行の)道筋しか話せないのか、ということの理由である。

彼らは、己自身の、長年の苦しい修行を通して、最終的に、己自身の性行(=性格と行い)に合致する方法を発見した、という訳である。

しかしながら、彼らの修行方法は、彼らと全く正反対の性行の修行者にとっては、役に立たない。この性行における巨大な差異は、各自の宿世の習気(=習慣と気質)と、今世の文化的背景の差異から来ている。

たとえば、お互いに挨拶をする時、中国人は「今天不錯(=今日は悪くはない)」と言って、今日の一日がまんざらではないような表現をする。しかし、西洋においては「今天不錯」は、悪い意味も含まれる。こういうことから、西洋人は、暇で退屈な時にだけ「今天不錯」と言う。

故に、善くて巧みな禅師は、異なる性行の学生に対して、異なる修行の業処を紹介するのである。

教育体系の差異もまた、教師と学生の溝を作り出すことがある。現代の教育体系は、理知の育成に重点を置いていて、情緒の健全な育成を疎かにしている面がある。そのため、現代人の定の修習においては、往々にして、脳を使用することに偏重している。

過度に理知を用いて、禅の修行の目標に専注する為に、禅の修行においては、頭痛を生じさせるということが起こっている。

実際、止禅の正しい発展においては、健全な情緒の強化に頼らなければならない。

現代文明に影響されていない田舎の人々は、かえって情緒や知恵が高く、ゆえに、定の修習が楽に進捗する、幸福な人となる(+事が多い)。

彼らは、情緒を過度に緊張させる事が習慣になっていないし、また、己自身をストレスにさらす事もしない。ゆえに、止禅の修行を始めると、思い通りに修行が進むのである。

こうしたことから、現代人(多くは、瞋性行衆生に属する。己自身と他人に、過酷に要求する)を指導する時、教学については緩くして、情緒の育成に重点をおくために、修行に関しては、快適で優美な環境を選ぶことが多い。個人の性行を理解することは、個人の修行方式を理解することでもある事が分かる。

上記のように、性行上の差異によって、定の修行方式やモデルが決定される事を理解したならば、あなたは種々の異なる禅の修行方法において、混乱を感じることがなくなるであろうし、また、(+己が)ある種の禅の修法に取り組んでいるからといって、その他の禅の修法を、批判したりすることはなくなる。

≪増支部・三法集・第65経≫の教えをしっかりと覚えておき、広い心と計らいをもって、更に多くの、根源を極め、貪・瞋・痴を断ずる事から離れない、色々な、善くて巧みな法門を受け入れなければならない。

各種の法門の中から、己自身の性行に合致する方法を選び出して修行に取り組み、己自らの身を持って、貪・瞋・痴を取り除く事のできる方法、それが、信心(=仏法への信頼)の立脚点となるのである。(4-3につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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☆「掌中の葉」(翻訳文)4-1

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

第四章 性行と業処

性行(=性格と行い)

性行には六種類ある。

すなわち、貪行、瞋行、痴行、信行、覚行、尋行であり、簡潔に、六種類の性行と言う。

《清浄道論・第三章・第74段》

《清浄道論》の定義によると、性行とは、本性・増性と同じ意味の言葉であって、すべて、人の個性的傾向を指している。

正確に言うと、ここでいう性行とは、一人の人間が、禅の修行の上において、顕す所の、性格と行いの事である。

ある種の人々は、生まれつき読書が好きではないが、しかし、禅の修行においては、他の人に比べて、潜在能力や理解力が、豊かであることがある。

人を六種類の性行に分類することは、非常に簡便な方法である。

実際は、人々は、貪、瞋、痴、信、覚、尋の、六種類の内の、性行の幾種類かを、同時に具備していると思われる。

心理学者の研究によると、多くの人々は、多重的な性格を擁している。また、俗説では:「一種類のお米は、100種類の人を養う」と言うが、それは、このことを、上手く言い表しているのである。

世の中には、千千万万の異なる人々がいるのだから、どうして六種類の性行しかないと、言えるのだろうか?

人間は多種多様だと言うけれども、しかしまた、この六大種から離れることもない。故に、簡便的にいえば、六種類の性行がある、と言うのである。

多くの修行者は、修行する時、己がどの性行に属するかという事に、関心を寄せるのを忘れてしまう。

ある人にとっての良薬は、他人にとっては毒薬になることがある。

たとえば、現代の健康医学は、我々に生野菜を食べ、生水を飲めというが、しかし、身体が寒に傾く人、特に胃が虚である人は、この教えに盲従してはならない。

同様に、たとえば:「完全なリラックス」「決意は必要ではない」などの、禅の(+修行の上での)掛け声・秘訣は、痴行修行者には適切ではない。痴行修行者にとっては、たとえば「いつも注意を払う」「正念を保つ」などの掛け声・秘訣の方がよい。

これらの判断はすべて、修行者の性行(=性格と行い)の違いから、決定されるべきである。

(4-2につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>

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<「掌中の葉」(シッダッタ学院)中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

是誰庵のひとやすみ~蕎麦の実から思う事

先日、水中運動に行きましたら、運動仲間のおばぁさんから「蕎麦の実が欲しい。インターネットで買えないか?」という相談を受けました。

どうやら TV の番組内で、蕎麦の実が体にいいと、宣伝されたようです。

庵に帰って、調べてみましたが、某通販会社で、普段 600円程の蕎麦の実が、2500円くらいに高騰していて、びっくりしました。

TV で紹介されてから、購入者がうなぎ上りに増えて、販売業者がどんどん値段を吊り上げたようです(健康で長生きしたい、その為ならば、火の中水の中、という人の多い事、多い事)。

高騰している蕎麦の実の、インターネットの通販画面を見ながら、五穀米とか、十二穀米とか、色々出ているのだから、蕎麦の実に拘る事もないかな、と思ったのですが・・・。

私、仏教徒としては、もう一つ、別の事を考えました。

それは、仏陀が「心と身体は己のものではない」と言ったという、その言葉の内実です。

これは一体、何を意味しているのでしょうか?

以前、台湾の比丘尼さんから教わったのですが「あなたが箪笥を見ている時、あなたは箪笥ではありえない」という、世の中には、至極御尤もなロジックがあるのですね(全くもってコロンブスのたまご>です。聞くまでは、こんな簡単な事を知らなかったのですから、オソマツ)。

このデンでいくと、心と身体が己のものではないという事を知るためには、己の心と身体が観えなければなりません。いえ、観えれば、観えさえすれば、仏陀の言葉が証明されたことになります

そのために、仏教では「32身分」という修行方法、「名・色観察法」という修行方法があります(名とは心で、色とは身体の事です)。

仏陀は言いっぱなし、な~~んて無責任な事はしません。ちゃんと修行方法まで、教えてくれています。

でも、真剣に取り組む人はとても少ないです。

もし、本当に心と身体が自分のものでなくて、それが修行によって確認する事ができるならば、自分はどんな生き方がしたいでしょうか?

もう一度原点に戻って、よくよく考えてみたいものだと思いました。

追記:「名・色観察法」は、無常・苦・無我の観察の外、<観る者と観られる者の関係性>をも問うもので、これを極める事は悟りであり、仏法における、重要な命題の内の一つです。