Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)3-9

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

すでに55歳になってはいたものの、アチャン・サオは炎天の下で、終日行脚し、安定した、軽い足取りで、最も危険な地域を踏破した。

彼ら一群の人々が、卉晒村の近くに到着したのは、雨期が始まったばかりの時で、一陣また一陣と荒れ狂う暴風雨の後は、まぶしいばかりの太陽が目を射し、湿気の多い暑気が、土地全体に覆いかぶさった。

仏陀の取り決めによると、雨季の期間、僧は必ず行脚を止めて、遮蔽物のある場所で、3か月を過ごさなければならない。

アチャン・サオは知っていた。

肌にべたつく湿り気は、雨季の到来を告げており、適当な場所を見つけて安居を過ごし、禅の修行に専念しなければならない事を。

濃霧が漂う朝日の光の中で、アチャン・サオは弟子を連れて歩いたが、一行は裸足で、褐色の袈裟を着て、鉢を肩にかけて、安らいで静かな村に入った。

彼らは、気概のある村人たちの、どのような布施をも、喜んで受け取ったーーご飯、塩漬けの魚、バナナ、また微笑と尊敬の礼拝をも。

この、一群の、威儀荘厳の僧たちが出現するや否や、たちまち騒ぎとなり、村全体に、ああでもない、こうでもないという呼び合う声が響き、老若男女はバタバタと、急ぎ食べ物を用意して ”修行僧” に供養をした。

アチャン・サオが達白の家の戸口の前を通ったとき、家人全員がすでに、泥の道に整列して、いくらかの食べ物でも、僧の方々の鉢に入れてさしあげ、是非とも、殊勝な功徳を積みたいものだとばかりに、供養するチャンスが訪れるのを、今か今かと待っていた。

達頌は、この一群の出家者は一体誰であるのかを知りたいと焦り、何人かの友人と共に、彼らに付いて行って、彼らが一時的に足を停めている山辺まで行った。

アチャン・サオは、地域全体で言えば、深く尊敬されている高僧ではあったが、しかし、彼らは今まで、お互いに会ったことはなく、故に、この出家者がまさに、アチャン・サオ当人だと知った時、達頌は、望外の喜びを感じずにはいられなかった。

達頌は、たとえ今年の雨季の間だけでも、アチャン・サオに、この村で安居を過ごしてもらいたい、と心に決めた。

彼は、この村の隅々ーー急流のある渓水、湾曲している河川の流れ、山中にある洞窟、切り立った岩、広い草原、または緑濃い森林まで、十分に熟知していた。

達頌はアチャン・サオを連れて、自分が安居を過ごすのに適当だと思われる場所を、案内した。

アチャン・サオは、邦克朗(=バンクラン)の洞穴を、雨季を過ごす場所として選び、達頌は緊張していた気持ちを緩ませて、喜んだ。

この洞穴は森林の中にあり、周囲は平坦な砂岩で、村からは、徒歩で一時間ほどの、距離であった。

(3-10につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

 

 

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)3-8

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

了解你自己、接受自己的錯誤、

(己自身を理解して、己の間違いを受け入れて)

然後努力改過。

(その後に努めて間違いを改める)

対自己不要有所隠瞞、

(己自身に隠すところなく)

最重要的是、不要欺騙自己。

(最も重要なのは、己自身を騙さないこと)

如果你要的話、可以欺騙整個世界、

(あなたがそうしたければ、あなたは世界全体を騙してもよいが)。

但是、絶対不要欺騙你自己。

(しかし、決して己自身を騙してはならない)

戦士のような無畏なる精神

毎年訪れる灼熱の乾季、しばしば、雲遊の頭陀僧が卉晒村を通り、辺鄙な場所を見つけて、禅の修行をした。

その付近の、村を囲む森と高山を、人々は恐れていた。そこは、野生動物が横行し、険悪な野蛮地帯であり、この区域全体は、悪魔によって管理されている、と言われていた。

人々が恐れて、中に入らない為に、この大きな森林は、辺鄙で静かであり、遊行僧にとって、ここで苦行し、禅の修行をすることは、非常に適切であった。

出離、克己と遁世の頭陀僧は、通常、人のいない山道を遊行し、荒野をさまよい、修行して煩悩を滅し去るのに適する場所をーー山の峰、洞穴または懸崖などーーを探し出して、心身を落ち着かせることが多い。

頭陀僧は戸外で生活し、自然の環境と、変幻して予測することの出来ない天候の下で、日を過ごす。

彼らは、大自然の中に溶け込み、日々、豊かな自然環境の中で生活する:岩石と樹木;河川と渓水;虎、蛇、象や熊(+のいる所で)。

通常彼らは、森の縁辺にある小さな村々を托鉢して、命を繋ぐ。

普泰族と頭陀僧は、固く結ばれた縁がある。それは、彼らの、あの戦士のような、勇敢で無畏の精神において、好漢は好漢を知るの感があるが故に、頭陀僧の生活方式は、普泰族の人々にとって、非常に容易に受け入れられるものであった。

達白の父親は、特に森林僧が好きで、彼は讃嘆の微笑を見せて、彼らの事を ”本物の仏弟子” と称した。

森林僧が見えると、彼は大変に意気込んで、子供のような情熱で、彼らを接待した。

1914年、人格高潔にして名声高い頭陀僧アチャン(=アーチャンとも言う)サオの到来は、卉晒村の信仰を、根本から変えることになった。

アチャン・サオと一群の弟子は、ある日突然、卉晒村にやってきたが、彼らは非常に遠くの地方から、何か月も遊行して、ようやくここに到着したのであった。

彼らは、ラオスからメコン川を渡り、シャムのナコンパノンに来て、その後に色軍府東部の山々を踏み越えて、最後に磐山の荒野を渡って、ここ莫拉限に到達したのであった。

(3-9につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は

<菩提樹文庫>まで。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)3-7

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

一軒の家には、誰か一人、早起きして火を起し、ご飯を炊く人が必要で、誰かが、三度の食事を準備しなければならないし、茶碗を洗い、掃除・洗濯をしなければならない。

そのほかに、綿花は糸にしなければならないし、布は織らねばならないし、衣服は縫われなければならない;

また箒を作り、籠や食器:ご飯を盛る竹の器、茸や野菜を入れる籐の籠などなど・・・。

少しばかりの訓練を経て、達白はこれら体力を要する労働に慣れていった。それぞれの仕事の細部では、非常に長い時間をかけて、その秘訣を知るものだが、彼女は小さい頃から、色々な仕事に熟達した。

家庭内の雑務を整える以外に、彼女は、田または森の近くまで行って仕事をしたが、これらの肉体労働も、また別の技術と知識がなければ、上手にこなす事はできなかった。

達白の母親は、生前、よく彼女を連れて、野山に出かけ、山菜や木の実をなどの、食べられる植物を採り、時には、遠くの池まで行って、魚を捕まえたりした。

今では、彼女は伯母と、彼女たちの子供と出かけて、毒キノコと食用キノコの違い、甘い山菜と苦い山菜の違いを、学んだりした。

種を蒔く事、収穫する事、採集する事、食糧問題は、日常の生活の中においては、一番の関心の焦点であった。

軟らかくて香りよいもち米は、普泰人の主食であり、故に、お米は、村民の生活とは切り離せないもので、当地の人々の生活様式に、深く影響を与えた。

雨季の前、農民は、先に小さな苗代で、苗を育てる。

雨季がやって来ると、大量の雨が土地に滲みこむので、その時、農民は水牛を使って、田を耕す。一度耕した田を、今度は足で踏みつけ、どろどろの泥土にしてしまう。

このように処理した稲田は、軟らかい土となり、苗を植えるのに相応しくなる。

この時、群れを成した女性たちが、一抱えの苗を持って、腰を曲げて、後ろに下がりながら、小さな束の苗を、田の中に差し込んで行くが、それは、一列毎に、美しく整っていなければならなかった。

田植えは、体力を消耗する作業ではあるが、それが却って、村民を団結させることになった。

達白の母親が逝去した後、田植えの時期には、家の女性たちは、彼女の父親の田で苗を植えた。初めの時、達白は、小さすぎて、これらの肉体労働に参加する事ができなかったが、彼女はあぜ道に立って、女性たちがまだうす暗い早朝から、泥沼の中を行ったり来たりして、仕事をしているのを眺め、自分が速く大きくなって、彼女たちと一緒に、仕事をしたいと思ったりした。

達白の母親が逝去した後、達頌は決まりに従って節を守り、その後に再婚した。

継室は一人の年若い寡婦で、小さな女の子を連れてきた。彼女の夫はペストでなくなったのだが、この時代、田舎ではペストが爆発的に流行することがあり、それは巨大な破壊をもたらしたが、もともとすでに艱難である生活に、更に多くの苦難が降りかかった。

達白は、この継母が好きで、二人はすぐに仲良くなり、継母の連れてきた女の子とも、友達になった。

これらの変化は、新しい日々の始まりのようであり、達白に笑顔が戻り、何を見ても嬉しかった。彼女の歓びと楽しみは、田舎での苦難の生活をすべて、溶かし去ってしまうが如くであった。

しかし、世間は無常であり、達白の異母弟は、生まれてすぐに天に召され、彼女は再び、別離と悲しみに打ちひしがれた。

無常というこの苦渋の真相を体験するーーこれはまるで、彼女が、この変遷し離別しなければならない世界の中で、必ず学ばなければならないと決まっている宿題のようなもので、彼女は周囲の一切の物事が、日毎、季節毎、不断に崩壊しては更新されていくのを見た。

無常は生命の中において、真実明確に存在しており、愛別離は、生活の一部分であった。

普泰の村の生活は、異常なほど艱難で、女性たちの雑務が終わることはない。

歳々年は変われど、炊事、洗濯、縫い物、機織り、編み物、田植え、刈り取り・・・。

仕事は達白と継母の距離を縮め、二人は助け合って、途切れる事のない作業に取り組み、きつい仕事を分担し、二人で一緒に、ほっと一息ついりした。

達白は、仕事の中から多くの事柄を学んだ。

当地には学校がなく、彼女は正規の教育を受けることができなかった。家が、田が、森が、彼女の学校となり、彼女がこれらの場所で学んだ事は、人生にとって不可欠の学びであり、それはーー愛、出離、無常、忍耐、失望と決意、苦悩と捨であるが、それらは彼女の一生の支えとなった。

彼女は、少女の時代に、このような教育を受けて、ゆっくりと成長していった。

(3-8につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」(翻訳文)5-89

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

≪増支部・二集≫の註釈に言う:

「尋が生起するのは、心を目標の法に向かわせるためであり、それはまるで、一羽の大鳥が飛び立つために翼を広げて、下方に向かって、空気を叩く動作をするのと、同じである。

というのも、それは合一して、安止にまで、導くからである。

伺の自性は、持続的に圧することで、それはちょうど、当該の鳥が翼を用いて、天空を滑空するのを維持するためにする動作のようである。

というのも、それは目標を持続的に圧するが故に。」

これは、伺が釘付けにする現象に、合致する。

この種の区別は、ジャーナ五分法の中の、初禅と第二禅の間において、非常に明確である。

次に、一つの手で、汚れた金属の盤を持ち、もう一つの手で粉・油とウールの布きれを持って、当該の盤を磨くとき、尋は盤を掴んでいる手、伺は盤を磨く手に相当する。

同様に、左官が棒を用いて輪を回してお皿を造るとき、支える手は尋、動かしている手は、伺に相当する。

同様に、円を描くとき、中心点に固定した針は、心を目標に向かわせる尋であり、円を描いて回る針は、持続的に目標を圧する所の伺である、ということになる。

(5-90につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<パオ・セヤドー「顕正法蔵」2008年中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)3-6

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

達白が最も好きなのは、五月のウェーサカ祭りであった。

この日は、仏陀の生誕、証悟、入滅の日である。

卉晒村の五月は、一年の内の最も美しい月で、雨季の始まり、最初の慈雨を受けて、各様各色の花が、怒涛のように咲き乱れる。

仏殿の中の、供養に使われる、幾つもの机の上には、心を込めた花が飾られ、仏に供えられた花々は、妖艶な色彩を放っていた。

夜、僧侶たちと村民は、蝋燭をもって布薩堂を巡り、その後で、出家者が皆を先導して、古老の偈頌を念じ詠い、世尊と仏法を讃嘆する。

これに参加した信徒は、荘厳な法会の中にいて、濁った心は清らかになり、安らぐ。

達白と父親の、心霊上の関係はますます親密になり、最初達白は躊躇したものの、後になって、父親にもう一つの世界、己の神秘的で奇妙な内心の世界について告白した。

達頌は、忍耐力があり、疑惑の気持ちを抱えながら、遊びが好きな天人の話や、夢の中の冒険談を聞いてあげた。

これらの奇怪で幻想的な漫遊の物語について、彼は娘の話を、聞いてはあげたものの、その真実性については、保留した。

達白が七歳の時、彼女は、まるで映像を見ているかのように自然に浮かび上がる、はっきりとした、己の過去世を思い出した。

彼女は過去において、ある時は人であり、ある時は別のもので、医師であったり、王女であったり、普通の市民であったり、一羽の鶏になったこともあった。

彼女は非常に天真爛漫に、急いでこの事を、父親に告げた。

達頌は、娘の天眼による経験を聞いて、非常に不機嫌になり、同意できないと思い、彼の顔色は黒く変わり、声も変化して、威圧的な語気で達白を警告したーー話し始めた時は温和であったが、すぐに厳しくなったーーこのことを、誰にも話してはならない!

彼は村の人が、彼女が発狂したと思うだろう事に心を痛め、また、もっとよくない事件が起きる事を心配した。

このような小さな村で、このような事がひとたび喧伝されたならば、彼女は一生、汚名を背負って、生きていかねばならないに違いない。

徐々に、達白は、家に母親がいない状況に慣れ、伝統的な婦女の責任を請け負い、彼女の姉と共に、家事を分担した。

彼女は姉より丈夫で力があり、意志も堅固であった。達白は彼女の母親のように、色々な些末な事柄を、ちょうどよく差配し、解決していった。

(3-7につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)3-5

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

達白は常々、自分の父親が、如何ほどに、出家者を尊敬しているか、を見た。

それは、心の内から発せられたもので、真心からの尊敬、敬虔で熱心な態度は、高官と会う時に表す緊張の態度、警戒心を伴う尊敬とは、異なっていた。

毎朝、達白と母親は、バナナの葉で包んだもち米のご飯とカレーを、出家者の鉢の中に入れてやり、父親は、托鉢する僧侶の後に附いて歩き、僧侶が供養の品を受け取るたびに、彼は如法に傍らに侍して、随時お世話をし、最後に村の端まで随伴した後、供養の品で一杯になった鉢を運ぶのを手伝って、寺院まで戻った。

毎月の満月、上半月、新月と下半月の四回の斎戒の日には、達頌は、得難い機会とばかりに、一日中寺院にいて、謹厳に持戒し、僧たちと世話話をし、雑用をした。

小さな子供としての、達白の生命のエネルギーは、物質の世界と精神の世界の間を、自由に行き来した。

しかし、天には予測出来ない風雲があり、彼女が五歳の時、この二つの世界は、両方とも崩れ落ちてしまった。

完全に予兆もないままーー彼女はこのような出来事が生起することを夢にも思った事はなかったーー母親が卒然として、病を得たのち、亡くなったのである。

彼女はひどく驚き、困惑したが、以前には当然と思っていたことが、今では、すべてが瓦解してしまったのである。

簡単な葬礼の時、達白は、母親の硬く冷たくなって、白い布に包まれ、荒削りの焚き木の上に置かれた身体を見つめた。

焚き木に火をつけると、大きく炎が上がり、白い布と皮膚を焼き、肉が露出し、亡骸全体が歪んだ。

達白は、それ以上は見続けることができなくて、辛くて生きていけないがの如くに、後ずさりした。

最後に、火は滅され、灰と骨だけが残った時になっても、彼女はその光景をみることができなかった。

母親の逝去は、年端もいかない達白に、無常と離別は、人生の一部分であり、生命は痛苦と死から逃げられないということを教えた。

家族ーー特に二人の兄、翁と英ーーの支えによって、達白は徐々に悲痛の中から歩み出すことができた。

二人の兄は、深く深く、この清らかな目をした、意志堅固な妹を愛しており、彼らもまた母親の逝去によって打ちひしがれているにせよ、それでもなんとか方策を講じて、妹を慰撫しつづけた。

しかしながら、最終的には、彼女と父親の間に打ち立てられた斬新な、更に親密な、相互の関係性が彼女の心を解かして、ようやく、悲しみの陰、憂いの陰から出てくることができた。

愛妻が去った後、達頌は、斎戒の日には、達白を連れて、寺院に行くようになった。

彼女は父親と一緒に、そこに何時間も座り、周りを見渡し、白昼夢を見、そして最も重要なことーー癒しをした。

彼女はますますもって、寺院の雰囲気に耽溺し、暇さえあれば寺院に入り込み、マンゴーの木の下に座って、何もしないで静かに、安寧の心境を享受するのであった。

(3-6につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「メーチ・ケーウの物語」(翻訳文)3-4

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

達白の父母は、敬虔でかつ開明的な仏教徒で、普泰人の中において盛大に執り行われていた、鬼神を拝む祭事は、これを敬して遠ざけた。

彼らの家は、村の寺院のすぐ後ろにあり、その間に竹の垣根があった。

毎年乾季になると、寺院にある大きなマンゴーの木の実が熟す度に、マンゴーが、彼らの家の庭に落ちた。

このような環境の下で成長した達白は、小さい時から、寺院において、朝な夕なに響く、静かで落ち着いた読経の声、出家者の修行や作業や休憩の風景を、当たり前のようにみていた。

彼女は小さい頃から、すでに出家者の、軽やかでソフトなメロディーのついたお経を読む声は、己の内心に共鳴するまで、専心して聞くべきであることを知っていた。

仏教のお祭りのある日、彼女は最高に興奮した。

というのも、村人全員が、彼女の家の裏の寺院の空き地に集まって、祝い事を催すのだから。

(3-5につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「美琪喬ーー一位阿羅漢尼修道証果之道」Dhammavamsa Publication 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>