Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「身念処」1-29

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

1-3-2 四正勤(図1-1)

(すでに生じた煩悩は断じ除き、いまだ生じない煩悩は、増長させない事に、精進する)

1)悪の境界を断じ除く努力をする。

2)悪の境界を防御する努力をする(この二項の煩悩は、蓋というーー1-8節参照の事)。

3)善の境界を発展せしめるよう努力する(すなわち、智慧の成就である)。

4)善の境界を維持するよう努力する(すなわち、智慧を保持する事。この四項は、<今・ここ>において保持する事を意味する)。

第(3)の項は(+それが実践できれば)、身念処の修法において、すでに十分である。

第(3)項があれば、その前の2項は、自然に具足する。故に第(4)項は、<今・ここ>において保持するものである。

四正勤の実践は、八聖道の中の戒・定・慧を成長させる為の組み合わせ・セットとなる。

この四項は、一セットとなして、四念処の所縁を観照するのに用い、悪報を断じ除いて、善法を増長せしめる。

1‐3‐3 四神足(図1‐1)

1)欲(苦を滅したいという願い、またはその抱負)。

2)進(苦の滅において精進する)。

3)心(心が定を得て、苦を滅する事ができる)。

4)慧(般若の智慧で苦を滅する)。

(1-30につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ★誤字脱字を発見された方は、

菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「身念処」1-28

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

1-3-1-5 修行の助縁

(煩悩を断じ除くのに有利な条件)

1)住む場所の助縁:

静かで、誰かの持ち物ではない所。

それ故に、執着から生じる煩悩とは、無縁であるような場所。

2)法の助縁:

修行者の性質と行動に適合させる。

たとえば、愛が強く、慧が鈍い人は、身念処を修行するのがよい。

3)先輩・指導者の助縁:

教法は、必ずや、苦を滅する方向へ導くものでなければならないし、かつ、四念処の理論から学び始める事。

ゆえに修行者は、己が修行しているのが、真正なる vipassana 修法なのかどうか、必ず知っておく必要がある。

実修の方法は、実相(第一階智:名色分別智)が見えるものでなくてはならない。

指導者は、学生に自由に問題を提起させる必要がある。そのようにして初めて、学生は、修行上に生じた疑問を、解決することができる。

4)食べ物の助縁:

衛生的で、健康的である事。あまり豊富過ぎるのは良くない。必要であるならば、修行者それぞれ個別に、食事の制限をする。

仏陀は、もし、住む場所も良く、食べ物も良いけれども、法を見る事ができないのであれば、修行者は、そこを離れるべきである;

もし、住まいも食べ物もよくなくても、修行者が法を見る事ができるのであるならば、修行者はそこに留まり続けるべきだ、と述べている。

誰かが彼を追い出そうとしても、彼は、法を見るための条件の整っている場所に、留まるべきである。

5)天候は、余り暑すぎず、寒すぎない場所がよい。

1-3-1-6 正確な修法(四念処)

仏陀の説に基づく、正確な修法は:

1)心身への執着を断じ除くよう導く事ができる。

2)無執着に導く事ができる。

3)煩悩を取り除く事ができる。

4)貪欲を完全に取り除く事ができる。

5)正確な知見または道を得る事ができる。

6)四聖諦を体験・証悟する事ができる。

7)涅槃(滅)へ導く事ができる。

(6)については、バラモンのパタパッタ(=帕塔帕達)が仏陀に、宇宙は永遠であるか永遠でないかという問題を問うた時、仏陀は、その質問に答える事を拒否し、かつ四聖諦を説き、以下のように述べた:

「パタパッタよ。

というのも、あの問題(四聖諦)は、比較的有益で、法に関連しており、正しい行為に導くことが出来、欲貪を離れることができ、心を静かにさせる事ができ、更に高いレベルの道を認識し、深く観ずる事ができ、涅槃へ向かうことが出来る。

故に、パタパッタよ。

これが、なぜ私が、この問題に対して、更に一歩進んで(+このように)解説をするのか、という理由である。」(長部ニカーヤ・戒蘊品)

(1-29につづく)

  <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「身念処」1-27

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

1-3-3-3 如理作意と覚察力(=察知力)

上述の二点以外に、修行に役立つ二種類の要素がある:

それは、如理作意(すなわち、何かをなす時には、その理由をよく知って、同時に、煩悩を防止する事)及び察知力(すなわち、今現在の修行・行動が正しいか正しくないかを知っている事)である。

この二種類の要素を具足した正しい修法は、明覚(精進、正念、正知)を生じせしめ、最後には涅槃へと導き、かつ、苦を滅する事ができる。

1-3-1-4 所縁の修行

この種の修法の所縁は、粗いかまたは微細な動作である(微細な動作とは、粗い動作が順調に進むように支援する所の、小さな動作の事である。すなわち、姿勢を変えるなど等)。

真正なるvipassanaの修法は、三心を具足していなければならない:

精進、正念、正知である。

如理作意と察知力は、補助的なものに過ぎない。

vipassanaの主要な任務は、貪と瞋を断じ除くことである。(詳細は、第二章、実修の部分を参照の事)。

1-3-1-4-1 色々な人々に適合する念処の所縁

人の分類         適合する所縁

1)愛が強い(欲楽に執着)

  慧は鈍          身

2)愛が強い(欲楽に執着)

  慧は利(=鋭い)     受

3)見が強い(心を常として執着)

  慧は鈍          心

4)見が強い(心を我として執着)

  慧は利          法

註:

1)貪愛は、身念処を(+所縁)と(+して修行)する。というのも、身体は、容易に照見できるし、また、身体は不浄であり、厭うべきものであるから、身体を観ずる事は、身体を浄だとして執着する邪見(顛倒妄想)を変える事ができるが故に。

2)心身を楽として、執着する邪見を変える。

3)心身を常であるとして、執着する邪見を変える。

4)心身を我であるとして、執着する邪見を変える。

なお、顛倒妄想とは、

a)身体を浄と執着する。

b)心身を楽と執着する。

c)心を常と執着する。

d)心身を我と執着する、の四項である。

(1-28につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「身念処」1-26

     <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

2)受

身念処を修している時に、受を観じてはいけない。受念処の修習の時にだけ、受を観ずるようにするべきである。

たとえば、身体が痛みを感じる時、心が痛みを知っているという事に関しての、観照をしてはならない。このようにすると、(+修行が)非常に複雑になる。

受を四念処の修習の所縁にすると、非常に修行が難しくなる。というのも、合計で9種の受があるが故にーー捨受を含むこれらは、非常に観照が難しいものである。

3)心

16個の心念処(+がある):

貪心、無貪心、瞋心、無瞋心、痴心、無痴心、淫欲心など等である。

4)法

5個の法念処がある:

1、五蓋。

2、五蘊

3、12処(感官の範囲、たとえば、聞く等)。

4、7菩提分。

5、四聖諦。

1-3-1-2 身念処

身念処の修行方法には、14種類ある。

しかし、この修行方法は、二種類(+の状況)においてのみ、用いられる:

粗い動作と微細な動作である。

初心者は、身念処から修行を始めるべきであるーー粗い動作と微細な動作ーーというのも、身体は、心より観照しやすいが故に。

身体を明確に観照して(+その内容が)明確になり、その為に、煩悩がなくなった時、実相般若が生起する。

その時、あなたは心を観照する事ができる(これは、ちょうど鏡をしっかり磨いたならば、あなたは容易に、物を見る事ができるようになるのと同じである)。

身念処はまた、現代人の性質と行動に合っている(1-3-1-4-1節参照の事。色々な人々の所縁の対象として適切である)。

粗いかまたは微細な動作を観照するのは、その他の(+種類の)身念処(+を修行するより)色身(+の内)に隠れている苦を、見つけやすい。

仏陀は、色身の動作に関して明覚する時、身体の苦は隠れている事ができない、と述べている)。

14種類の身念処の中で、3種類だけが、真正なるvipassanaの修法である、と言える:

(+それはすなわち)粗いかまたは微細な動作及び、身体の構成物の観照である。

(1-27につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

「身念処」1-25

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

1-3-1-1 四念処を修する時の要件

a)身、受、心または法を所縁とする必要がある。

b)三心(精進、正念、正知)の下に、所縁を観照する事。これが真正なる四念処の修法であり、四念処は、涅槃への道を強化し、涅槃へと導くことのできる善法である。

c)上記の a)と b)を組み合わせて、「世間」(五蘊)に対する、貪と瞋を、断じ除くことができる。

1)身(図1-2)

「身念処を修習する時は、ただ身のみを観ずる」(四念処の立場から言えば):

一種類の念処を修習する時は、一つの所縁だけを観照する。

もし、身念処を修習するのならば、ただ身だけを観ずる。同時に身と心を観ずるような事をしてはならない:

同時に身と心を観ずる修習方法は、良い修法とは言えない。

たとえば、身と受、身と心、または身と法を混ぜて、修習してはならない。

身念処を修習する時は、身だけを観じ、受念処を修習する時は、受だけを観ずるようにする。

もし、あなたが他の所縁(念処)を混ぜてしまうと、たとえば、一冊の本を読んでいるとして、今はこちらのページ、今度はあちらのページと、目移りしているようなものである。

このようにであれば、あなたは、この本が、一体何を言いたいのかを知る事ができない。

修行も同様であって、あなたは《大念処経》の原則に従って修行しなければならない。

もし、他の方法を用いるならば、見道(心身の無我を見る)するのは、非常に難しい。

(1-26につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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「身念処」1-24

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

1)所縁:座っている時の、色身を観照するーー己自身に対して。

2)能縁:精進ーー正念ーー正知。これが、真正なる四念処である(この三心とはすなわち、戒・定・慧と八聖道である)。

3)目的:五蘊への好悪の念(貪と瞋)を断じ除く。

4)利益:無明(無知)を破り、四聖諦を体験・証悟して、苦を滅する。

四念処の修習と、八聖道の修習とは、同じことである。

言い換えれば:

もし、あなたが八聖道を修するならば、それは、四念処を修している事になるーーというのも、四念処と八聖道は、皆、中道法であるが故に(仏陀の述べた37道品は、皆、中道法である。)

四念処は、37道品の基礎であり、実相般若を激発し、かつ、苦を滅する事ができる。

<図1-2>

(訳者~当ブログは、図表を作成する事ができませんので、文章形式・箇条書きとします)

四念処(図1-1の続き)

1)身(14)

2)受(9)

3)心(有、無貪欲等)(16)

4)心と身(法)(聴く、妄想心等)(5)

四念処には、合計で44個の所縁がある。

どの修法でも、阿羅漢果を証得する事ができる。

たとえば、アーナンダは、身念処でもって、阿羅漢果を証得したが、それは微細な動作を観照している時に、証得したものである(彼は、将に、横になろうとした時、開悟し、果を証したのである。)

(1-25につづく)

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中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

「身念処」1-23(20/203)

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

図1-1 37道品

(訳者~当ブログは図表を作る事ができませんので、文章形式・箇条書きとします)

 1)身(身念処)は、14個の所縁

(粗いか微細かの動作のみ)。

2)受(受念処)は9個の所縁。

3)心(心念処)は16個の所縁。

4)身と心(法念処)は、5個の所縁。

5)上記①~④を基礎に、①~④は苦諦(苦の真相)

(+である事を知る)(1-4-3節参照の事)→

6)四念処→

7)四正勤→

8)四神足→

9)五根→

10)五力→

11)七菩提分→

12)八聖道→

13)四聖諦→

15)苦の滅。

(1-23につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>