Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「身念処」1‐65

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

妄想心も同様であって、もし、修行者が妄想心をコントロールしたいと思い、専注や(+心が長く)平静で(+あり続けたいと強く望むならば)これも貪になる。(+この時)もし、修行者が妄想をコントロールできないのであれば、(+修行者に)怒りの心が起こる。

妄想は、我々に対して、心はコントロールできないものーー無我であると、啓示してくれる。

妄想するのは心であり、すなわちそれは、「私」が妄想しているのではなくて、心(心王)が妄想しているのである。

観禅(=vipassana)の時に出現する幻像とか符号、諸々の閃光、幻覚なども、一種の煩悩であり、それらはあなたを<今・ここ>から乖離させる事がある。

それらは、vipassana の所縁ではなく、また、それはすでにあなたが定から離れている事を、暗示しているのである。

同様に、軽安と快適な感覚もまた、定から離れいている現象である。

歩くか、又は運動するのは、定からの乖離する現象を減らすよい方法である。

もし、修行者が、サマタを修行するならば、煩悩の特徴を見る事はできない。というのも、サマタは、ただ貪と瞋だけを、降伏することができるが故に。

修行(+の方法)を間違う、その動機は、一種の煩悩である可能性がある。もし、一人の修行者が、苦を滅し、生死を了したい(=生死輪廻を終わりにしたい)のであれば、この種の動機は正しいものである。

しかし、もし、一人の修行者が、その他の理由、例えば、何かに成功したい、成就したいと思うのであれば、それは煩悩である。

もし、一人の人間が、忍耐強く禅定ーーこれは一種の善法ではあるがーーを修習したとしても、苦を滅することは、できないのである。

(1-66につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

テーラワーダの出家と在家の関係

私はテーラワーダ仏教を学んで35年になります。

最初にタイのスナンタ・ワラナムで修行し、その後にパオに行き、出家しました(現時点で、ミャンマーの女性出家である<サヤレー>という身分で日本に住んでいます)。

タイで学んだのは15年間、パオは、20年になります。

比丘やサヤレーが間違いを犯した時、在家が批判しても、全然かまいません。

ただ、批判した相手が聖人であった時、また誤解からであった時、批判者(出家でも在家でも)はそれ相応の罰(己の不明を恥じる)を受ける事はあるでしょう。

ここに「南伝仏教在家居士須知(在家居士の知るべきテーラワーダの戒律)」(中国語版)という本があります。

今回の騒動が一段落しましたら、これを翻訳しましょう。

タイでも緬甸(ミャンマー)でも、在家は戒律の事を、大変によく知っています。

「在家は、サンガに口出しするな」とは言われません。

サンガを支えているのは在家です。

    <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

 

カルマ論について

カルマは、日本語では業(ごう)といいます。

その意味は、人間一人ひとりの心には、ある種の癖があり、その癖がその人の行動に、ある種の方向性を持たせ、その行動の方向性によって、人生が、幸せにも不幸せにもなる、という考えです。

これは仏教でも言われますが、ヒンズー教でも言います。

そして、ヒンズー教では、カルマ論を利用して、四姓差別制度を維持してきました。

すなわち、あなたが今アンタッチャブル(奴隷、奴婢)で、つらい生活を送るのは、過去世のカルマのせいであって、今世で相応の罰を受けているのだ、という訳です。

しかし、仏教徒はこのようにカルマ論を、悪用してはなりません。

仏教のカルマ論は、

「あなたの心の癖は治せます。人間に生まれた今こそ、その心の癖を治しましょう。そうすれば、今すぐに、または来世も、より生きやすくなるでしょう」

というものです。

仏教徒を自認するなら、衆生に対する、同甘共苦の慈・悲がなければなりません。

カルマ論で人を脅すのは、慈でもなければ悲でもありません。自戒すべきです。

        <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

テーラワーダ出家者の純潔

テーラワーダの出家者は、戒律に関して、一点の曇りもなく、修行生活を送らなければなりません。

通常、テーラワーダの出家者、特に比丘は、細心の注意を払って生活しています。

自分を訪ねて僧院に来た女性と話をする時、それが妻(別居に相当)であっても、外部、庭や通路、事務所等で話をします。しかたなく女性を伴って、自室に入る時は、もう一人の男性か女性に同行してもらい、窓や戸口を開け放ちます。

それでも誤解から、疑われ、指弾される事はあると思います。

もし、戒律違反を疑われたならば、比丘、サヤレーは、即刻、疑惑について、釈明する義務があります。

告発者を罵倒、悪口してはなりません。

指弾された己の不明が、すでに恥なのですから。

    <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

パオ森林僧院の現状

11月2日よりこのかた、日本(主に東京)では、パオ森林僧院を最後の修行地として帰国された、マハーカルナー禅師の重大戒律違反問題(11月15日現在、真偽不明)で、揺れています。

ただ、揺れていると言っても、日本全体からみれば、

コップの中の嵐>でありますから、騒げば騒ぐほど、市井の民、誠実な仏教徒から嫌悪される事を、関係者は胸に銘じておきましょう。

パオ森林僧院の本山は、緬甸(ミャンマー)の西部モーラミャイン、パオ村にあります。

先代の住職が、パオ・セヤドー(ウ・アチンナ)の資質を見込まれて、僧院の後継者として迎え入れたそうです。

パオ・セヤドーはそれ以前には、森林に一人籠り、清浄道論に基づき修行して、現代において抜け落ちてしまった修行方法の欠け口を見つけ、それを繋ぐことに成功し、いわゆるパオ・メソッドを考案されました(ただし、御本人は、パオ・メソッドと呼ばれるのを嫌い、自分はただ、古の修行方法を復元しただけだ、とおっしゃっています)

今、緬甸中部のメミョウにおいて、パオ・セヤドーは、1万人が学び、修行できる、仏教大学と修行道場を建設中です。

タイの仏教大学では、パオ・セヤドーの著書・論文が正式に受理され、名誉教授のような地位を得たとの事です(伝聞です)。

これまで、タイは自国の修行方法を誇り、緬甸もまた自国の修行方法を誇っていましたが、今後は、タイと緬甸のサンガが手を取り合って、修行方法のメニューを色々揃え、修行者は、己の興味とレベルに合わせて、修行方法を選べるようになるのではないか、と思っています。

今回の戒律違反疑惑による混乱は、雨降って地固まると言いますか、仏教とは何か、修行者はどうあるべきか、一人ひとりが自分の胸に問う、よい機会だと思います。

仏法は自然法(自然の真理)です。

それはいつも、我々と共にあります。

    <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay>

 

「身念処」1-64

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

三番目――潜在的な煩悩(漏):

これは微細な煩悩で、例えば痴(邪見)のようなもの。

唯一、実相般若のみが、この種の潜在的な煩悩を断じ除く事ができる。

もし、三番目の煩悩を、断じ除く事ができるならば、第一、第二の煩悩もたま断じ除かれる。

煩悩の生起する所において、煩悩を、断じ除かねばならない。

例えば、我々が、痛みを(+痛いと)妄執する時、「私は痛いのだ」と妄執するーーしかし、痛いのは色身なのである。

故に、我々は色身の苦を観照するという方法でもって、色身において、邪見を断じ除くのである。

見る事、聞く事を、心の作用であると見做さなければならない。というのも、我々は非常に安易に「私が」見ている、「私が」聞いている、と妄執するからである。

このようであるから、我々は、我々の心の中で、この種の煩悩(邪見)を断じ除かねばならない。

「心が見ている」、「心が聞いている」は実相であるーー物事の本来の面目または自然な真実の状態として、それらーー実相ーーを見る事。

この種の修法において、修行者の任務とは、執着と嫌悪(貪と瞋)を断じ除く事である。

ある種の修法に、「座りつつ」、(+座る事によって生じた)痛みが無くなるまで「(+痛みを)超越せよ」というのがある;

この種の修法は執着を生み、また、我々に「我有り」という妄執、または(+痛み・現象を)主宰できるという誤った観念を齎す。

というのも、我々は座りながら、痛みを超越する事ができるし、また痛みを消す事もできるが故に。

(1-65につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

是誰庵のひとやすみ~心を読む

最近、何やら、騒がしい。

パーラージカとか何とか、東京の風が、こんな九州の片田舎にまで、吹いてくる。

韓国の法頂和尚(遷化)は、世間を嫌って、どんどん山奥に逃げていく内に、本当に山のどんづまりまで来てしまい、小さな杣小屋に一人住み、川の水で煮炊きをし、衣を洗っていたらしい。

私は静かな夜、小さな灯火の下、そっとアチャン・チャーの本(注1)を開いてみる。

 彼は言う。

「本を閉じなさい。

自分の心を見なさい。

仏教は、”心”の宗教、ただそれだけ!

あなたが ”心の本質” に触れる事ができたなら、

人々は、同じ一つの、大きな家族だという事が、

分かるでしょう。」

          (注1)アチャン・チャー著「以法為贈礼」より抜粋して翻訳

 

仏教に、高僧しか知らない<奥義>なんて、ないのです。

ただ、深く深く、己の心を見つめる事のできる人だけが、自分の中に、奥義を見つける事ができるのです。

仏陀に「教師の握り拳」はないのです。

「奥義をあなただけに教えます」などというのは、ありえない。

そんなスローガンは悪徳商法と同じ。

皆様お気をつけ下さい。