Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「身念処」2-2

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

2-1 修行要点

2-1-1 四種類の姿勢

我々は、四種類の姿勢において、身・心を観照する:

それは、行・住・坐・臥である。

《大念処経》の綱要において、四種類の基本的なまたは、主要な姿勢(+について述べられている)。

というのも、身体は、心より容易に観照する事ができる為、我々は、身体を観じる事から始める(+のがよい)。

身体が比較的観じやすい事の理由は、

1)身体は比較的「粗くて・顕著」で、心は比較的微細である。

2)四種類の姿勢は、いつでも存在する。

(心の所縁であるーー例えば聞く、見る等はーーただある種の時間帯にのみ作用する。)

3)色身(=身体)は、その他の所縁より、更に容易に苦を観じる事が出来る。

というのも、我々は、四種類の姿勢を観照する時、苦は、決して隠蔽され得ないが故に。

2-1-2 我々が観照する時に必要な道具

1、精進

2、正念

3、正知

4、如理作意(如理思惟)

5、省察

精進とは、積極的に煩悩を断つ事。

正念とは、四念処に住する(=留まる)事。

正知とは、智慧を啓発し、愚痴(=愚かさ)、または邪見を取り除き、はっきりと(+あるがままに)認識する事。

三心を利用して、各種の姿勢を観照する事ができる。

1)精進。

精進しない時、あなたは座っている色身全体を体験・体得することができない。たとえば、妄想によって、あなたが<今・ここ>から離れた時、精進心は、正念と正知を高めて、あなたを<今・ここ>に戻すことができる。

2)正念。

あなたをして、あなたが座っている様子ーー姿勢を知らしめる。

3)正知。

あなたをして、座っている姿勢全体が、色身である事を知らしめる。

4)如理作意。

個人の注意力を、ある種の事柄に集中させる事で、例えば、如何なる動作の理由・原因も知っているとか、または座っている色身の実際の状況を知っているなど等。

如理作意は、あなたが飲食する時、沐浴する時、または厠に行く時、またはどのような事柄であっても、あなたは苦を治す為に行為しているのであって、楽を探し求めているのではないという事を、気づかせ、知らしめる。

如理作意はあなたに、姿勢を転換するのは、ただ、苦を治するためなのである事を、気づき、知らしめる。

5)省察力とは観照の事。

それは、あなたに正しく修行しているかどうかを、教えてくれるし、あなたに<今・ここ>を離れていなかどうかを教えてくれる。

(2-3につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

「身念処」2-1(82/203)

     <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

第二章

実修

永い間、以下の事柄に執着してきた:これは私の、これは私、これは私自身。

(相応部ーニカーヤ)

臘月三十は、もうすぐにやってくる。

その時、あなたが行住坐臥(+歩くいていようが、立っていようが、座っていようが、横になっていようが)死なねばならない。

故に、あなたには、もう時間がないのである。

(小部ーニカーヤ)

老・病・死という、この三つの事柄は、ちょうど大火のように近づいている。

どのような力をもってしても、それらを安んじる事はできない。

たとえ、あなたがどんなに速く走ったとしても、それらから逃げ去る事は、できないのである。

(小部ーニカーヤ)

(2-2につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「南伝仏教在家居士須知」改題「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律

ハンドブック」中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」2-10

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

三帰依の解釈)

仏陀の解説)

今ここにおいて、言われている所の:

仏陀に関する解説、帰依の行い、及び行(帰依)者」(の解説を以下の通り行う:)ーーこの中において、すでに体験・証悟した所の、すでに一切の諸法に関する無障礙の智相を遍修し、(五)蘊相続による施設された(各種の有情)への執取を無上解脱した所の、または一切知智の足処[近因]

(注15)が施設する所の、各種の有情を執取して区別した所の有情を「仏陀(Buddha)」(注16)と見做す。

如説:「『仏陀』ーー彼の世尊は、自ら成り、無師であり、前に聞いたことのない法において、己自身で自ら諸諦を悟り、かつこれによって一切知智を獲得し、また、諸力において自在を得た(注17)

(注15)現観諸諦(saccābhisamayam)、緬甸版は「現自覚諸諦(saccābhisambodhim)」。

(注16) この部分を比較的分かり易い言葉で述べると、以下のようになる:究極的な義理・文章上の道筋では、人または有情はただ、色、受、想行、識の五蘊の相続にしか過ぎない。ただ、通俗的には、我々は、概念上に施設(=設定)して、人とか有情とかと言っているのである。

仏陀という概念における人とは、彼はすでに修行を終え、一切の諸法に対して何等の障礙もない、比べる人のない解脱の智慧を体験・証悟している。または仏陀というこの概念上の人は、すでに証悟しており、四聖諦を了解している(+と言う)。また、仏陀というこの概念上の人とは、一切知智(一切法を知ることのできる智慧、これは仏陀のみ、特有のものである)を体験・証悟している根本的[直接的]原因。

(注17)Mind.p.143.Ps.i.p174。

(2-11につづく)

     <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「南伝仏教在家居士須知」改題「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律

ハンドブック」中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」2-9

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

我々は、破、未破、果、及び所応行(帰依の対象)について、以下に、解説する:

『法に帰依』等の二種は、ここにおいて、知られる方法で説明する。

順序の原因となった事柄を、説明し、確定する。

かつ、比喩で以て、この三帰依を説明する」

この内、第一番目の偈頌の中に:

「この三帰依は、

誰が述べたのか?

どこで述べたのか?

何時述べたのか?

なぜ述べたのか?」

というのがある。

如来が最も先に述べたのではない(三帰依であるのに)、なぜ、ここでは真っ先に述べられているのか?」

ここには五つの問題があるが、その回答は以下の通り:

「誰が述べたのか?」:

世尊による。諸々の弟子でもなく、諸々の仙人(isi)でもなく、また、諸々の天(が言ったものでもない)。

「どこで述べたのか?」:

バーラーナシー(Bārāṇasī)の仙人の降りたつ(処)の鹿(野)苑で(開示したものである)。

「いつ(述べたのか)?」:

耶舎(Yasa)尊者と(彼の)友人達が、阿羅漢を証得した時、(当時、世間では合計)61人の阿羅漢がいたが、世間の衆生の利益の為に、説法をした時に(その時、開示されたのである。)

「なぜ述べたのか?」:

出家をして、具足戒を受けさせる為である。

例えば:「さて、比丘たちよ。このように出家しようとするならば、具足戒を受けせしめよ:

先に、鬚と毛髪を剃らしめ、袈裟衣を着せしめ、上衣は一方の肩に偏たんし、比丘たちの足を礼敬し、蹲踞して(かかとを上げて)座らしめ、合掌せしめ、(受戒者に対して)以下のように言わねばならない:

『あなたはこのように言いなさい:

私は仏に帰依します。

私は法に帰依します。

私はサンガに帰依します。』

「なぜここにおいて、真っ先に述べるのか?」:

この大師の九分教法が三蔵(の形)で以て収められたのを知った後、(再び)先に諸々の導師(ācaraiya)が伝誦する所の方式(vācanāmagga、語道)を採用する(+事にした)。

この方式[道]は、諸々の天(と)人間たちが近事男(upāsaka、在家居士)または出家して(仏)教に入りせしめる。

故に、この教法に入る為の(この伝誦)方式[道]はーー《小誦》において、最も先に述べたのである。

以上、因縁の浄化、すなわち説明を終えた。

(2-10につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<「南伝仏教在家居士須知」改題「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律

ハンドブック」中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

「身念処」1-87(81/203)

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

(P80、図の説明につき、全頁省略。p81上段、同、省略)

( ↓ p81、下段)

愛(=渇愛)の結果(が輪廻である事)を理解したならば、諸法は、常で、生・滅異変しないという妄執のある人、また貪欲心が非常に重い人(淫欲心が非常に強い人)は、 身・心の最後は、結局は、老と死である事を、観照しなければならない。

生死輪廻の中において、我々は不断に、三界おいて生まれい出ている(欲界、色界、無色界ーーまたは31の有)。

生死輪廻を離脱したいと思うならば、我々は、《大念処経》の中の原則に基づいて、四念処を修しなければならない。

四念処は、37道品の中の第一番目の項目でありーー四聖諦を体験・証悟するよう導く実践の教えである。

(2-1につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

「身念処」1-86

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

1-12-2 縁起の法における各方面からの分析

我々は、7つの角度から、縁起の法を研究する事ができる:

例えば、因と縁の鎖、幾世代において、幾重にも重なる因果等等。

ここでは、その中の何種類かを研究する:

1、三世20行相(図1-4省略)

a)この模式では、20の要点があり、5つが過去の因:無明、行、愛、取、有である。

b)5つの現在の果:(結成)識、名色、六入、触、受。

c)5つは現在の因:愛、取、有、無明、行。

d)5つは未来の果:(結成)識、名色、六入、触、受。

注:(図1-4省略)

a)5つの過去の因は、我々の現在の存在(有)を決定する。というのも、

我々は、出世間の智慧を体験・証悟していないが故に。

故に、無明は、すべての結果の根本原因である。

無明によって世間の生活を送る時、我々は善と悪の業をなすが、それを行という。

例えば、もし、我々が サマタを修して禅定を成就したとしても、我々は、なお、世間において、行を造作しているのである(すなわち、善業を為している)。行の結果は、愛を導き至る。

愛が、益々強くなる時、取に変る;

我々は、ある種の物を欲しいと思うのは愛であり、それを所有した時、愛は取に変る。

取は、有を導き至る。

有には二種類ある:

業有ーー有(生命)の活動過程(過去世)と生有ーー結生の過程。

業有は、善または悪で、未来の(+生活の)良しあしを決定する。

生有は、新しい生命が展開する所の命運(+または運命)の過程を指す。

生有の良しあしは、業有の善悪による。

有は、業を造している事自体を言う。

というのも、どのような形式の有であろうとも、我々は、生死輪廻の内にあるが故に。

実相の法則は、すなわち縁起の法であり、また、業を造す事とは、すなわち業報でもあるーーまた、どのような人であっても、この結果から逃げたり、結果を変えたりする事はできない。

これは最も公平な、法則なのである。

b)過去の因から、5つの現在の果が生まれる。

そして、現在の果は、その生命が形成される所の、特徴を有する:例えば、人には人の特徴がある事等など。

c)5つの現在の因。

五つ目の現在の果(受)は、一番目の現在の因(愛)を導き到る。愛がある故に取、有があり、その後に無明、行があるが、ここでいう有は、<後有>の事であり、新しい生命を決定する。

この有の為に、四聖諦を体験・証悟することなく、再び無明に到る。

無明は、また(善・悪)の業を造作し、再び、行へと変化していく。

この一組の行は、あなたが、善か悪かの行為を造作する時、行と呼ばれる。

この一組の有の意味は、業がすでに造作されたことを意味する。

d)5つの未来の果。行の縁によりて(+結生)識あり。

後ろの四個は、現在世の身・心で、その上にこの5つの未来の果を加えると、合計20個の因果関係がある事が分かる。

この20個の因果関係は、一つの輪のように、最初もなければ、終わりもない。

しかし、仏陀は、主要な因(根源的な因)は、無明であると看破した。

(訳者注:hatenablogでは、図が作成できませんので、図1-4、図1-5、図1-6 は、省略させて頂きました)

(1-87につづく)

    <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

 

 

「身念処」1-85

    <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

1-12-1 如何にして12縁起でもって邪見を破るのか?

12縁起の真相を理解したならば、智慧の力でもって、顛倒妄想を打ち破る事ができる。

1、無明:

<無明の縁によって行あり>を理解する事によって、(+己より)更に高度なレベルの力があるとか、それが万物を創造する、等の邪見に妄執する事を破り除く事ができる。

2、行:

<行の縁によりて、識あり>を理解する事によって、自我の邪見を破り除く事ができる。

というのも、「あなた」は生まれて来たのではなくて、結生識に過ぎないが故に。

3、名色:

<結生識によりて名色あり>を理解する事によって、名色が堅実であり、かつ永恒であるという邪見を変える事ができる。

4、六入:

<名色の縁によりて六入(眼、耳、鼻等)>を理解すれば、私が聞いている、私が見ている、という邪見を変える事ができる。

5、触:

<六入の縁によりて触あり>

触とは、根、塵、識が和合して生じる所の(識分別)であり、(+これを理解すれば)根、塵、識を我とみなす邪見を、変える事ができる。

6、受:

<触の縁によりて受あり>

受とは楽受等の事ーーこれを知れば、「私が」楽しい、「私が」苦しい、という邪見を変える事ができる。

7、愛:

<受の縁によりて愛あり(愛を心所法で表すと、貪心所になる)>

これを理解すれば、如何なる「有」(生命の形式)に生まれようとも楽しいのだ、という邪見を破り除く事ができる。

8、取:

<愛の縁によりて取がある(取は、貪心所と見心によって構成されている)>を理解したならば、ある種の物事は、魅力があるとか、美しいとか、耳に心地よい、など等の妄執を変える事ができる。

9、有:

<取の縁によりて有がある>

これを理解すれば、人の死後、断滅するという邪見(実際は、<取の縁によりて、有あり>であり、有とは思ー心所ー心王である。

思心所は、結果を生じせしめる意志または行動を推進する力であるーーすなわち、再びの出生、または有、の事)。

10、

<生>:(注1)有の縁によりて生があるため、これを理解すれば、五蘊を楽と見做す妄執を破り除く事ができる。

11、老・死:

<生の縁によりて老死あり>。

五蘊が常、楽、我、浄であるという邪見の妄執を変えることができる。

(注1)合計四の生がある:

1)胎生、2)卵生、3)湿生、4)化生。

(8-16につづく)

      <Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<原題「身念処」Vipassana Bhavana 第二版 アチャン・ネン著 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>