Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』5-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

5、等無間縁(samanantarapaccayo)

無間縁は、無間縁と同じである。

まったく同じであるのに、なぜ同じことを重複するのか?

仏陀は経を説明する時、衆生の好みに合わせる事が多い。

たとえば、心(citta)、意(mano)、識(viññāṇa)は、みな同じ意味であり、パーリ語でも同じ意味である。

ある時、あなたが識と言っても、聴衆が分からないならば、心と言い換えてみる。衆生が更によく理解できるように、仏陀は時々、異なった名詞でもって、同じ意味の事柄を説明したのである。

ちょうど、等無間縁と無間縁のように。

(6-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

般若の独り言~精舎に新入り

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上記バラの写真、自慢したいとか、特に意味はありません(笑)。

時々、ブログに何か写真をUPしないと、UPの仕方が分からなくなりますので、久々の練習です。

このバラは、<ハッピー・マザーズデー>と言い、覆輪(芯が黄色、縁がオレンジ)で、蔓バラです。さて、どこに植えて、どのように誘引するか、それが問題だ(笑)。

ハッピーのつかない、ただの<マザーズディー>というのは、すでに庭に植わっています。こちらは、赤一色です。

このバラを入手したのは田舎にある某バラ園で、そこの蔓バラ用アーチは、全部手作り。

園芸用支柱を縦横に組み合わせて、結束バンドで好みの高さのアーチを作るのは、とてもよいアイデアだと思います。市販の鉄製のアーチは大きすぎて扱いにくいし、捨てる時も大変ですから。

上記バラ園では、<アウグスタ・ルイーゼ>というバラもお買い上げ(800円、安いです)。私の好きな杏色で(ピンクが勝っているけど)、これは明日UPします。

   <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

 

FDC資料「37道品ハンドブック」6-1 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

第六章 五力(balāni)

「力」の定義とは:「障礙に対応するが故に、『力』と言う」。

パーリ聖典では、以下のように言う:

「どのような時に障礙に出会おうとも、恐怖がなく安定している事を、『力』と言う。」

(《増支部》Ekaka Nipātaṭṭhakathā、Apara accharāsanghātha―vagga-vaṇṇanā)

「根」と同じように、「力」にも五種類ある:

1、信力

2、精進力

3、念力

4、定力

5、慧力。

「身見」の王国を打ち壊す為に、上記の者はそれぞれ将軍であったり、指揮官であったりする。

仏法における比丘または凡夫について言えば、上記の者は、頼る事のできる力である。

「信根」と同じ様に、「信力」にも、二種類ある。

1、自然信。

2、定信。

「自然信」とは、特別の修行や開発を経ないで、環境と貪欲によって生起したもので、故に、布施、持戒などの「自然的善業」のみ生じることが出来る。

「自然信」には「貪欲」を克服する力がなく、反対に「貪欲」が「自然信」をコントロールしている。

この事は、「貪欲」が如何に強力に「自然信」を支配するかを物語っているが、パーリ聖典の中では、四種類の聖者の伝統的修法に関する記述がある(聖種法 ariya-vaṁsa-dhammā。《増支部》Catukka‐nipāta、Pahama-paṇṇāsaka、ariyavaṁsa-sutta)。

が、これらは、太陽、月の如く、清らかに明確に天空に存在する。この四種類の修法とは:

1、食べ物に対して、非常に容易に満足する。(乞食)。

2、衣服に対して、非常に容易に満足する。(糞掃衣)。

3、住居に関して、非常に容易に満足する。(樹木の下に坐る)。

4、修習において、喜楽を発現する。(心身の寂静)。

(6-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

FDC資料「37道品ハンドブック」5-15 ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

もし、はっきりと明確に苦諦を察知・覚知する事ができたならば、当然の事に、その他の三諦もまた、はっきりと察知することができる。

「四聖諦」を察知するとは、一般の凡夫は「随覚智」(anubodhi-ñāṇa)でもって認識するのであるが、聖者は、「通達智」(paṭivedha-ñāṇa)でもって認識するのである。「随覚智」は、闇夜に閃光を見る様なものであって、光を見ても、火そのものは見ていない。火を見ないで、ただ反射された閃光を見ているのであるが、しかし、火の存在は知ることができる。

直接、火を見たならば、それは「通達智」になる。

「信根の修習をし、精進根の修習をし、念根の修習をし、定根の修習をし、慧根の修習をする」(《相応部》大品、根相応、Sūkarakhatā。第8経)

上記の仏陀が述べたパーリの言葉、その意味は、「禅定」と「直観(=vipassana)」の為に、「五根」(心霊の機能)を修習し、開発しなければならない、という事である。

「五根」を開発しないのであれば、我々、一人の人間としての「蘊」は、ちょうど国家において、指導者や国王がいないかのようであり;森の中の原始の村に、政府が存在しない、というようなものである。

指導者または国王のいない国家は、法律もなく、その中においては、人々は規律を持たない。それは動物のようであって、弱肉強食となるのである。

同様に、一人の人間が「五根」を開発しないのであれば、その人の心は、迷いと惑いがあり、汚染を受けて混乱する。

それは悪霊にみちた人の様であり;「itipiso・・・(世尊は確かに・・・)」または「因縁」の偈頌などを、聞くことが出来ないのである。

「五根」を開発していない人は、縁起に関する話や、心霊の修習の開示を聞くと、彼らは即刻、それらに対して、批判を始めるのである。

彼らの中では、これまで「禅定」や「直観(=vipassana)」の修行に対して、全身全霊で取り組みたいというような心は、一度も生起する事はないのである。

反対に、一人の「五根」を開発した修行者は、正義を擁し、法によって統治する国王の存在する国家のように、ちょうど中規模の村または部落において、政府による行政単位があるようなものである。

この種の人は、各種の紛々とする理論によって動揺する事はなく、仏陀の開示した唯一の道の上を、確信を持って(+歩む事が出来る)。

ひとたび縁起の法または、内心を開発する修行に関する開示を聞くと、彼の心は、非常に清らかに明確になり、柔和になる。

彼は必ずや、「禅定」と「直観(=vipassana)」の修行に対して、全身全霊でもって、実践する。

こういう事であるから、この世界で生起する二種類の欲望とは、衆生の任務ではなく、それは「五根」の開発に依るものである。

もし「根」を開発しないのであれば、その中の一種類の欲望が生起する。

もし「根」を開発するならば、この種の欲望は消失し、もう一つ別の欲望が生起する。

「根」は開発されればされる程、この種の新しい欲望は強化される。

「五根」のすべてが打ち立てられた時、「道」と「果」への欲望もまた、直接的に出現する。

故に、衆生は「五根」を開発するべきであり、そうして初めて「自然信」、「精進」、「念」、「定」、「慧」を最高の境地にまで引き上げる事ができるのである。

(6-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

 

 

 

 

FDC資料「37道品ハンドブック」5-14 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

唯一、一人の修行者が、阿羅漢果を証得した時にのみ、全面的に「苦」の性質を体験・証悟する。

故に、長時間の精進・努力の後、直観(=vipassana)によって、一たび六界に内在する所の「無我」「無常」の本質に証入したならば、専注力の境地に安立することができる。

これは、「慧根」によって生起した所の主動的な優勢な(+心の状態である)。無始以来の輪廻によって、心霊上に形成された不安定性は、徐々に消失する。

ここにおいて、「心霊の不安定性」とは、物事は無常でありながら、恒常の感覚を擁し;苦痛であるのに、楽しいという感覚を擁し、良くないものであるのに、喜悦の感覚を擁し、無我であるのに、「私」という感覚を擁し、個人というのはないのに、個人という感覚を擁し、存在しないのに、存在するという感覚を擁し;人でないのに、人であるかのような感覚を擁し;非梵天、非帝釈天、非婆羅門であるのに、梵天帝釈天、婆羅門であるかのような感覚を擁し;非女性、非男性、非去勢牛、非象、非馬であるのに、女性、男性、去勢牛、象、馬のような感覚を擁している。

「不安定性」の中から解脱する事は、仏法の中において保証される事柄であり、かつ真正なる実相を観察されなければならない。

(5-15につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

FDC資料「37道品ハンドブック」5-13 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

「一人の修行者は、どこにおいて『慧根』を探すべきか?『四聖諦』において探すべきである。(《相応部》大品・根相応第4、応観第8経)。

人々が仏法に出会う時、その内の「四聖諦」の知識は、最も崇高なる価値を持つ(+事が分かる)。

この種の知識を証得して初めて、彼らは、身見、悪行、苦界の領域から解脱することができる。

故に、四聖諦の知識を獲得する為に、彼らは、各種の修行・・・たとえば、研究、記憶、吟唱、思惟、聞法、討論、問法、直観(=vipassana)の練習と黙観を実践し、かつ、少なくとも地水火風、虚空、識六界に証入し、またはそれらの流れと喪失、不安定な性質を直観し、それらの持続しえる時間は、一瞬の瞬きも越えない事、(+それらが)どのようにして、破壊され続けているかを洞察する。

もし、はっきりと明確に六界を観照する事ができるならば、その他の法について(たとえば、蘊、処等)、特別な修習をしなくてもよい。

もし、はっきりと明確に「無常」の性質を体験・体得することができるならば、「無我」の体験は、それに続いてやってくる。(《小部》自説経・Meghiya品、Meghiya経)

(5-14につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』4-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

次に、生命における最初の意門心路過程が生起するが、それは己自身の新しい生命を所縁として、新しい生命に執着する。

梵天、天界、人界、鬼道、動物界または地獄等、どこに生まれたとしても、我々は生命の内における、最初の意門心路過程は、この新しい生が、痛苦なものであろうが、楽しいものであろうが、新しい一生に執着を始める。

これが、なぜ、貪愛的な生存(有愛)が輪廻の根本であるかと言う理由である。

貪愛には三種類ある:欲愛、有愛と無有愛である。

有愛とは、生命に執着し、その生命が低いもの、微弱なもの、卑賤なもの、高尚なものに関わらず、それが消滅しないように(+と願う)。

有愛を取り除くのは、非常に困難である。

一つ目の意門心路過程の後は、続いて有分で、次に二番目の意門心路過程、次に有分で、続いて、三番目の意門心路過程・・・心路は、このようにして、この期の生命が終わりを宣告する所の死亡心まで延々と続く。

死亡心が生起して、その後に滅する間、中間に間断というのがなく、密着して次の心・・・結生識が生起して、また新しい一つの世が始まる。

こうしたことから、生死輪廻は、ただ心の生・滅の流れに過ぎない(+事が分かる)。

この種の心の生・滅は、その合間に間断がなく、故に無間縁と言う。

(5-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>