Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」4-4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(共通と差異の確定)

この(10学処)の内、前の二つの(学処)と、第四、第五(の合計四つの学処)は、諸々の近事男と、諸々の沙弥に共通する所の、常戒である。

第七番目と八番目(の学処)を一つに纏めて(+一か条とし、その上で)、全部の(学処)の中の、最後の(第10番目の学処)を取り除いたものは、諸々の近事男の布薩戒となり、この一切(八学処)は、諸々の沙弥とも、共同するものである;

最後の(第10番目の学処)は、唯一、諸々の沙弥にのみ属し、この部分が(+近事男とは)異なるものである。

以上が、共通の部分と、差異のある部分に関する、決定である。

この(10学処)の内、最初の五か条は、離自性罪というが、それは、殺生等は、一向(一方的;完全に)不善心所などによって、生起するからである。

その他の(学処)は、制定罪と言う。

以上によって、自性罪と制定罪が、確定された。

(補足:

「自性罪」は、世間罪とも言う。

自性罪は、その性質自体が罪悪であり、不善であり、過失のあるものを言う;

「制定罪(制罪)」は、世尊が特に、弟子のために制した戒・規定を言う。)

(4-5につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」4-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

ラーフラ(Rāhula)尊者が出家した後(の時に、開示したものである)。

(世尊が)カピラヴァッツ(Kapilavatthu)から、サーヴァッティに来た時、諸々の沙弥(sāmaṇera)に対して、学処(=学ぶべき事柄)を確立する為に、以下のような(+内容の事柄)を言った:

「当時、世尊は、カピラヴァッツに好きなだけ住んだ後、サーヴァッティに向かって遊行した。

順序良く遊行した後、サーヴァッティに到着した。

ここにおいて、世尊は、サーヴァッティの勝利林の給孤独園に住んだ。

当時、・・・略・・・。

当時、諸々の沙弥は、以下のように想った:

『我々にはどれほどの学処があるのか?

どのような学処が、我々が学ぶべきものなのか?』

(+そのように想って、)このことを世尊に報告した。

(世尊は言う):

『比丘たちよ。

私は、諸々の沙弥が、10の学処を受持するのを許す。

また、諸々の沙弥は、これら(の学処)を学ばなければならない』:

殺生を離れ、・・・略・・・、金銀の受持を離れる事。』」

(4-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」 

中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-14

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

臨死業(=臨終業)

(āsannakaṃママ

臨死業は、臨終の時に造(ナ)される業でる。

たとえば、二人の敵がいて、双方共に瞋恚の心を持って戦い、武器でもって、相手を打ち倒したならば、この行為を臨死業と言う。

もし、他に重業がなければ、次の生の果報は、必ずや、この臨死業の果報となる。

またたとえば、法友が、病人に経を回向したいと思い、法師を呼ぶなどし、または、病人に仏法を説いて聞かせる等したなら、これもまた臨死業である。

ある一つの物語を例にとる。

ある時、仏陀が説法をしていると、一匹の小さなカエルが、仏陀の説法の法音を聞いていた。

もちろんカエルには、内容を理解する事は出来なかったが、心が爽やかになったので、そこに留まってしっかりと聞いていた。

これは善業に属する心である。

この時、牧童がいて、自分の杖を地面に突き刺したが、不注意から、小さなカエルを、生きたまま突き殺してしまった。

このカエルの臨死業は、聞法の善業である為、カエルは、天界に生まれて、天人になったのである。

(2-15につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-13

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

重業(garukakaṃママ

重業とは、非常に大きな業の事である。

善業の場合で言えば、たとえば、禅定を得た所の・・・今生において禅定を得た人の、その次の生は、絶対に善なるものであり、それは、梵天に生まれ変わる事のできる業であり、これは非常に重大な善業である、と言える。

不善業の場合は、父母を殺す等の五逆の罪を言う。

この種の重業の果報は、必ず生起するもので、果報は彼をして、無間地獄へと落とすし、また、それを阻止できるいかなる業も、存在しない。

提婆達多は、この例である。

というのも、彼は、仏の身体から血を流さしめ、故に、無間地獄に落ちたのである。

どのような善業をもってしても、彼が地獄へ落ちる事を、止める事はできなかった。(+善業は)ただ、地獄で受ける苦しみを、一時的に、軽くする事が出来るだけである。

善業と悪業、双方ともに、果報を齎す。

重業の、思心所の第七番目の速行心は、その場で止まるという事は不可能であり、必ずや、当該の果報が、次の生で熟すのを促すのである。

そうであるから、我々はしっかりと考えなければならない:

我々には、善の方面における重業があるであろうか?

今の所は、ない;

悪業の方面における恐怖の重業は、あるであろうか?

ない。

そうであるならば、我々は、我々の未来の生において、重大な善業の果報も、悪業の果報もないのだと言える。

(2-14につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》  中国語版→日本語訳出

 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

般若の独り言~ごぼうのチェロス

最近、お堅い仏教書の翻訳が続きます。

特に《基礎発趣論(業縁と果報縁)》は、業(己の心のくせ)と、それが齎す果報についての関係性の解説で、

う~~ん、生きるのが、ちょっと怖い・・・^^;。

とは言うものの、善人も悪人も、一日三食、何か食べなければなりません。

 今日は、<ごぼうのチェロス>というのを紹介します。

1、ごぼう60g、

2、薄力粉50g、

3、ベーキングパウダー小さじ1/2。

上記<1、2、3>を、フードプロセッサに入れて、ガッーと回すと、あら不思議・・・粉々になったごぼうの水分と薄力粉が、上手い具合に混ざり合って、団子状になります。

これを50円玉くらいの大きさにちぎって(好みの形でも可)、油であげると、ごぼう風味のドーナッツ、の出来上がり。

水も玉子も使いませんので、超簡単です。

フードプロセッサをお持ちの方、お試しあれ。

   <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院/Pañña-adhika Sayalay 般若精舎>

 

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」4-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

「これらは、誰によって、どこで、いつ、なぜ説かれたのか、

言った、確定された、共通する部分、または共通しない部分、

自性の罪、制定の罪を挙げる、

当該の確定を行った後、共通する文言と意味に基づいて、

一切の(学処)に関して、共通の(文言)に対して、解説する。

この時、前の五つの(学処)に関しては、区別(=違い)や義理に関しての解説を行い、

殺生から始まって、その単一性(ekatādito、ekatānānatādito)等を

同様に、所縁、受持、破、大罪から(+説明し、また)、

方法、構成要素、等起、受、根、業から

離から、果から、応知の選択(=知るべき選択)から、

結合するべき、また、後ろの五個の(学処)との結合、

共通でないもの、および知るべき所の低劣等」

(+が解説される)。

ここにおいて、この、殺生を離れるという、10学処は、唯一、世尊一人が述べたものであって、弟子たちが(述べたものではない)。

その上、これらの(学処)は、Sāvatthī(舎衛城)の勝利林給孤独園において(開示されたものである)。

(4-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

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中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》2-12

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

五個(2~6)の速行心の果報の状態

第二番目から第六番目の、真ん中の速行心の(+その速度は)、急でもないし、ゆっくりでもない。

この、中間の五個の速行心における、善または不善なる業は、いまだ涅槃を証していない所の、未来の世において、そのどれもが、果報を熟させる機会を有している。

(+それらは)絶対に、どこそこの世において熟す、という(+決定的機能は)有しないが、しかし、因と縁が揃った、その世において、熟す事になる(=熟して果報を齎す)。

我々は過去世において、重大な善・悪業を造(ナ)

してはいないであろうか?

よく考えてみようではないか。

もしあるのであるならば、それは、結生する事それ(+自体)が、果報である。

それ以降にまた果報が生じるならば、それは単独では生起することはなく、過去の五個の速行心と業が一緒になって、果報を生じせしめる。

これが、善業を造(ナ)す人には、非常に多くのよい果報が得られ;

不善業を造(ナ)す人には、善の果報を生起せしめるなんらの力もない事を、物語っているのである。

善には善報あり。

我々は、過去の無数の生(=世)における業力を持っていて、一つ一つの生(=世)において、一回指を鳴らすその一瞬の間に、無数億の五個(2~6)の速行心による業が生じている訳であって、これは相当に、観るべきものがあるのである。

僧衆であっても、在家居士であっても、数えきれない程の、五個の速行心の業がある。

しかし、その果報はどのようにして、生じるのであるか?

この五個の速行心の果報は、第三番目の世(=生)から、未来において涅槃する前までの、すべての生命期の中において、成熟するチャンスを擁するのである。

時機が熟すると、果報は生じ、時機が熟さなければ、果報は現前に生じない。

それは結生の果報になる事もあれば、結生から、その一期の生命の終焉までの、なんらかの果報であることもあり得る。

たとえば、仏陀と阿羅漢たちは、清涼なる涅槃を得た後、彼らは、依然として非常に多くの、五個の速行心による業を残したが、しかし、これらの業は、無効業なのである。

我々は今、三種類の果報の状況を理解した:

一番目は「現生受業」で、それは一番目の速行心によって、生じる果報である。

二番目は「次生受業」で、それは第七番目の速行心によって、生じる果報である。

三番目は「後々受業」で、それは中間の五個の速行心によって、生じる果報である。

すべての有情は、非常に多くの、「後々受業」を擁しており、業を造(ナ)した三番目の生(=世)から始まって、未来において涅槃を証悟する前まで(+の生において)、因と縁が熟しさえすれば、それは即刻、果報を生じせしめるのである。

(2-13につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>