Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~素粒子を見て死ね

私が20年前に、台湾でパオ・セヤドーの著書『智慧之光』(中国語版)に出会って、一番感動したのは、《人間は瞑想すれば、色聚(素粒子またはクォーク)が(心眼で)見える》という主張でした。

私は子供の頃から<仏教は無常・苦・無我を言う>と信じて疑わなかったのですが、では、それは具体的には、一体何を言っているのか、という事に関しては、周囲の大人誰一人として説明できる人はいなかったので、私の心はいつも、真理を求めて得られない焦燥感で一杯だったのです。

その焦燥感に終止符が打たれる日が来たのだという予感から、『智慧之光』を抱いて日本に戻ってきた時の高揚は、いまでも忘れないくらいです。

パオ・セヤドーの言う所の40の業処(サマタ瞑想)、縁起と名色分別の修習、仏陀の瞑想の主目的、かつ仕上げとしての16観智の修習(vipassanā瞑想)、漏尽通としての涅槃体験・・・この積み上げ形式の修行方法に関しての評価、可否は、個人個人が、自分で考えて、結論を出せばよいと思います(仏教には八万四千の修行方法があるのですから、より取り見取りです)。

名色分別智から上、16観智の修習において、素粒子の刹那生滅、素粒子の離合集散、それをゴータマ仏陀は<色聚の無常・苦・無我>と述べた訳ですが、これらを心眼によって観照すること、すなわち心眼で直接知覚する事ができたならば、子供の時から抱いていた私の夢は、叶うことになります。

素粒子を見て死ぬ。

仏教徒としては、この上ない<冥途の土産>だと、棺桶に片足突っ込んだ老サヤレーは、思うわけです。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

般若の独り言~翻訳書一覧(未完・追加あり)10月22日までに4冊追加しました。

私が20年かけて翻訳しました仏教書は以下の通りです。

基本的に、ほとんどのものは、当ブログに掲載されていますが(逆順)、ここにないものは<菩提樹文庫>

(PDF正順)、またはWEB上のどこかにあります。

★パオ・セヤドーシリーズ

智慧の光」「如実知見」

「菩提資糧」「パオ・セヤドー問答集」

★Ledī sayādaw シリーズ

「37道品ハンドブック」「Vipassanaハンドブック」

★タイ高僧シリーズ

「阿羅漢向・阿羅漢果」「無我」「生活の中の縁起」

「身念処」「メーチ・ケーウの物語」

「アチャン・チャー法話集」(12巻中の一部分)

「無我」(2018年10月21日追加記載)

「生活の中の縁起」(同上)

★発趣論シリーズ

「基礎発趣論」「24縁発趣論」

「業縁と果報縁」(10/22追加記載)

★その他

「掌中の葉」(10/02追加記載)

「『禅修指南』紹介」

テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」

「偽比丘の見分け方」

「仏教キホンのキ」

「覚知、念と定」(<菩提樹文庫>にのみ掲載)

「四煩悩を断つ」(10/16追加記載)

 

(一覧未完・後日追加します)

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

般若の独り言~翻訳書一覧(まえがき)

先日、私が当ブログにて

「正念とは、業処を忘れない事である」

「マインドフルネス(=気づき)は仏教用語では<正知>または<威儀路明覚>と言う」

と書きました所、コメント欄に

「タイのアチャン・チャーも、緬甸のウ・ジョティカ大長老も、マインドフルネスで悟ったのだ。正念(パオ・メソッド)でしか悟れないというような誤った情報を書くな」というお叱りを受けました(9月25日『正念の誤解』コメント欄参照の事)。

私は:

「パオ・メソッドだけが正しいとか、パオ・メソッドでしか悟れないとは思っていないし、また、ブログにそのように書いた事はない。

その証拠に、私は当ブログで、アチャン・チャー、アチャン・マハーブーワ、メーチ・ケーウなど、タイの、悟ったと言われている方々の著書も、翻訳して公開しています」

とお返事申し上げました。

今現在、その指し示す内容、定義を、はっきりさせた方がよいと思っている仏教用語に、vipassanā、正念、刹那定があります。

<刹那定>については、非常な速度で刹那生滅する色聚(素粒子またはクォーク)を直接追跡して認知する定(近行定レベル)の事、と定義できると思います(想像ではなく、直接知覚できている事、すなわち、色聚とその識別・分離を、心眼で<手に取るように>見ている事)。

世の中、無常・苦・無我の理法(と涅槃体験)を悟った人は大勢います。その方法は多種多様です。

臨死体験で無我を悟ったラマナ・マハリシ、同じくある日突然、無我を悟ったタイのアチャン・ネーン(悟った後説明に困り、アビダンマを学んだ後、説法を開始)、アビダンマの試験には落ちたけれど阿羅漢になられたアチャン・チャー(ご本人は阿羅漢と呼ばれたくないそうです)、西欧社会に影響を与えたクリシュナ・ムルティはソータパナであったろうと言われているけれども、彼は「悟るのに方法はない、教師はいらない」と言っているくらいです(彼も頓悟派なのでしょう)。

私自身は、パオ・メソッドが好きですが、世の中の修行方法を、それ一色にする事などできません(世の中を、仏教一色にする事もできません)。

次の頁では、私がこれまで翻訳した仏教書の一覧を掲載しますので、ご参考下さい(「智慧の光」「如実知見」は、WEB上のどこかで見つける事ができると思います。「覚知、念と定」は<菩提樹文庫>にあります。)

   <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

 

般若の独り言~薪ストーブ焚いてみた

暑さ寒さも彼岸まで・・・。

彼岸を過ぎて我が村は秋・・・と言いたい所ですが、なぜか、一気に ”冬” に突入。

みなさん、ぜーぜー咳して風邪気味。

斯く言う私も、天候の変化には、からきし弱い。

今朝は、さっそく薪ストーブを焚きました。

薪は、薪屋さんからのではなくて、近所の人が伐採した雑木を、頂いたもの。

軒先においていたので乾燥が悪く、なかなか火がつかないのを、根気よく、火のついた紙を丸めては放り込み、丸めては放り込み・・・。

アチャン・チャーが、我々の精進が足りない事を

「君たちは木で火を起すときに、もう少しで火がつくという時に、その手を止めてしまう。修行もそんな風だから、いつまでたっても悟れないのだ」

と述べていましたが、何事も根気が大事なようです。

不怕慢、只怕站(bu pa man zhi pa zhan~修行の歩みが遅いのは構わないが、立ち止まるのは良くない。歩みを止めるな、中断するな、の意)。

出家も在家も、コツコツが、一番のようです。

    <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

般若の独り言~般若心経のここが好き

私が好きなお経・・・

そうですね、一番好きなのは「雪山童子」ですね。

「ヒマラヤに住む雪山童子は、世の理法として

諸行無常諸法無我一切皆苦

までは分かるけれど、最後の一句が分からない。

最後の一句を教えてくれる人がいたなら、命を捧げてもよいと思いながら歩いていると・・・」という物語。

最後に羅刹が出て来て、<涅槃寂静>を述べて、四法印の揃い踏み、メデタシ、メデタシのお経です。

次に好きなのは<大念処経>。

特に、パーリ語で読む<大念処経>、なぜか涙がホロホロ・・・タイの森林僧院で、パーリ語の<大念処経>の読誦の声が、夜の森の中を流れると、よく泣いたものです(悲しいのではなくて、懐かしい感じがして)。

次に好きなのが<般若心経>ですね。このお経は、テーラワーダには属さず、大乗仏教運動の萌芽期のお経だそうです。

最近、「色即是空、空即是色」という部分、色即是空が、<物質は素粒子すなわち波動で出来ている>という意味なら、「空即是色」という言い方は成立しない、という主張も見受けられましたが・・・<即是>に(=)と(≧)(≦)の意味もあるとしたら、「色即是空、空即是色」は成立するのではないか、と思います。

私の手元にある「般若心経」は<唐三蔵法師玄奘訳>とあります。唐の時代の<即是>はどんな意味だったのか、古語に詳しい方、出番ですよ!(注1)

まぁそれはともかく、私は「般若心経」の

<心無罣礙。無罣礙故、無有恐怖。遠離顛倒夢想、究竟涅槃>という所が好きです。

顛倒夢想とは何か・・・それさえ分かって、それから離れる事が出来れば、人類は、各種の心理的負担からも、恐怖心からも、自由でいられる。

では、人類は、何を顛倒夢想しているのか?

この命題とその答えは、人類解放の一番の手掛かりになると、まだ(ほっぺが赤く、おさげ髪の)少女だった頃の私は、思ったものです。

(注1)中々辞典を引きましたら、<即>には「その場所において」という意味があるそうです(例=即席)。そうすると「色即是空、空即是色」は、《色(物質)はその場において素粒子であり、素粒子はその場において物質である》と読めて、これは素粒子が移動しない性質を言っている事になります。う~~ん、なかなか深いかも。

   <緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

般若の独り言~台湾のパオ系寺院

読者の方から「台湾のパオ系寺院はどうなっているか?」という質問を頂きました。

私がこれまでに知り得た情報を、下記にお知らせします。

時間の経過等の関係で、多少の変化は否めませんので、実際に訪れたいと思う方は、先にメールなどで先方と連絡を取って下さい。

メールは英語か中国語(北京語)OK。

各寺院ともHPを開設しています。

(1)<静楽禅林>パオ・セヤドー自ら、台湾に来て土地を探し、セヤドーの肝入りで設立されたパオの台湾分院。

住職さんはパオのマンダレー分院から派遣された緬甸人大長老。副住職は台湾人長老比丘。

住職さんは緬甸語のみ、副住職さんは中国語、台湾語、英語。

リトリートの時は、中国在住のパオ系長老を呼んで、指導してもらう事も。台中の山中にあります。

(2)<法雨道場>釈明徳比丘が、アメリカでパオ・メソッドに出会い、自らパオの本山で修行した後、台湾に帰って設立したパオ系寺院。

明徳比丘は心臓病で急逝され、現在は別の比丘が住職担当。

こじんまりした寺院ですが、毎年一、二度、パオ本山またはパオ出身の長老を招いて、リトリートを開催します

その内の一名は、『禅修指南』の著者である

Ven.U Puññānanda尊者です。

当寺院は、嘉義の山中にあります。

(3)<法寂禅林>比丘尼さんが住職を務める寺院。スリランカのパオ系寺院(龍樹林)と仲がよく、リトリートは、指導者としてスリランカ人大長老を招く。大長老は英語を話します。英語←→中国語の通訳は出来ますが、日本語を話せる人は、いません。台南にあります。

上記三か所の寺院は、日本の修行者を受け入れるか、不明ですが(主に言語の関係で)、叩けば扉は開くかも知れません。希望者はチャレンジしてみて下さい。

  <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

 

 

般若の独り言~正念と感情

昨日は<「正念」の定義が誤解されて伝わっている現状>をブログにあげました。

そこでは、正念は本来「業処を忘れない」という意味だ、と書きました。

Nimitta を得て禅定に入る為の、<正念の修行>に打ち込むと、己自身の感受・感情(苦・楽・不苦不楽)を顧みることがなくなります。

これはしかし、諸刃の剣のようで、人間、時々は、自分の感情に向き合った方がよい時もあります。

己の喜怒哀楽、自分はなぜこのようなシュチエーションで怒ってしまうのか?なぜこの事ばかりに執着するのか?

これらの事柄について、やはり、思考し、思惟し、分析する必要があります。

禅定& vipassanā を目指す為の「業処を忘れない」修行と、自分の中において縛られている所の、負の感情を解き放つ為の努力、その両方が必要だと思います。

それを天秤のようにバランスよく修習する事・・・修行者にはそのような<智慧>が必要です。

ゴータマ仏陀の教えは、対機説法であったと言われています。

一人一人、修行の処方箋は、みな異なります。

Aさんにとっての良薬は、Bさんには劇薬になるかもしれません。

指導者の言葉を鵜呑みにせず、己自身の心情や状況とバランスを取りながら、修行を進めて下さい。

仏法の実践に、早飲み込み、人まねは禁物です。

修行とは、一切を己自身が引き受けて、自己責任(誰を指導者に仰ぎ、何を学ぶのかという判断も含む)で実践するものだと思いますが、<智慧>と<精進>のバランスを、お忘れにならないようにお願いします。

   <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>