Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」7‐2(260/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

彼らは、また、色法は苦であると照見する。

どの様な種の苦であるか?

行苦(saṅkhāra-dukkha)、すなわち、不断に生・滅に圧迫される苦である。

もし、ある物が、不断に生・滅の圧迫を受けるならば、我々はそれを楽である、と言えるであろうか?

不可能である。

五比丘は、容易に、色法の苦の本質を照見できたのである。

仏陀は続けて述べる:

「それが無常、苦であり、変化してやまないものであるならば:

『これは私のもの;

これは私;

これは私の自我(=これは己が探し求める本来の自己、の意)』

と見做すのは、適切であるや否や。」

「当然、不適切です、世尊」

色法は、生起するや否や、即刻壊滅する、故にそれらは無常である;

それらは生・滅の圧迫を受け続けており、故に苦である;

色法の中においては、コントロールできる、または主宰できる所の、一個の、安定した我、私は存在しない、故に無我である。

色法は、無常・苦・無我であるが故に、我々は以下の様に言うことはできない:

「これは私のものである;これは私である;これは私の私である」。

もし、色法の中に、一個の自我(=私、我)が存在するならば、色法は安定的、長期的に存在するはずである。

しかしながら、実際には、色法は生じるや否や、即刻滅する、故に、それらの中において、不変の我、私は無いのである。

これが、なぜ、五比丘が:「当然不適切です、世尊」と答えたのか、と言う答えである。

この回答は、彼らはすでに、色法の無我の本質を照見していることを意味している。

註釈の解釈によると、

「これは私のもの」と執着するのは、愛取(taṇhaggāha)であり;

「これは私である」と執着するのは、慢取(mānaggāha)であり;

「これは私の私である」と執着するのは、我取(attaggāha)である。

色法に対する愛取は、通常、色法は楽しさを齎すであろう、という錯覚から生じている。

あなたが色法が、不断に生・滅の圧迫を受けている、この種の苦の本質を照見する時、あなたは「これは私のものである」などとは言わないであろう。

こうしたことから、もし、あなたが何度も、色法をして「苦、苦、苦」と照見して、相当レベルに到達した時、愛取は消失する。

色法を苦として照見するのを「苦随観」(dukkhānupassanā)といい、それは「愛取」と相互に対立する。

色法の慢取に関しては、通常、驕慢に値する色法があると認めるのは、色法が恒常的な存在であるという錯覚から生じる。

あなたが色法を無常であると照見する時、あなたは「これは私である」と言わなくなるであろう、というのも、それは常に変化しているが故に。

あなたは色法の中において、「私」を見つける事はできない、そうであるが故に、あなたの驕慢は立脚点を失う。そして、あなたは色法の無常を観照する時、慢取は徐々に消失する。

この種の観法は、無常随観(aniccānupassanā)と呼ぶ。

それと「慢取」は相互に対立する。

色法に対する我取は、通常、色法の中において我が存在している、という錯覚から生じている。

あなたが色法を無常と苦であると照見する時、色法をば、恒常不変の我が存在している、などとは言わないであろう。

色法の無常の本質と、苦の本質を照見する事を通して、あなたは色法を無我として照見する。この様にして、我取は徐々に消失する。

この種の観法を無我随観(anattānupassanā)と呼ぶ。

この經の中において、仏陀は先に無常相を解説し、その後に苦相を解説し、最後にようやく無我相を解説した。

これは、無我相は、非常に理解しにくいからである。

その他の經において、ある時は、仏陀は先に無常相を解説し、その後に無我相を解説する;

ある時は、仏陀は先に苦相を解説し、その後に無我相を解説する。

本經においては、先に無常相と苦相を解説した後、ようやく、無我相を解説しているのである。

本經を聴聞した五比丘は、容易に、色法の無常・苦・無我を照見することができた。

經文は続けて以下の様にいう:

「あなたはどの様に思うか?

比丘たちよ。

受は常であるか、または無常であるか?・・・

想は常であるか、無常であるか?・・・

行は常である、無常であるか?・・・

識は常であるか、無常であるか・・・・」

五比丘は、徹底的に、五蘊を照見し、かつ、五蘊を無常・苦・無我として了知した。

ここにおいて、仏陀が彼らを教導した観禅の五蘊法門とは、以下の通りである:

「故に、比丘たちよ。

一切の色、過去のものであろうとも、未来のものであろうとも、または現在のもの、内在のもの、外在のもの、粗いもの、微細なもの、劣等なもの、殊勝なもの、遠いもの、近いものであろうとも、智慧でもってそれらを:

『これは私のものではない;

これは私ではない;

これは私の私ではない』

如実に、その様に見做さねばならない。」

(7-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」7-1(258/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

Ⅳ 無我相經

(Anattalakkhaṇa Sutta)

この經は、仏陀が成道した後、人間(=人の住む社会)において、開示した二番目の經である。

開示した時間は、仏陀が成道の後、最初の雨安居の五日目、またすなわち、仏陀が《転法輪経》を開示した、その五日後である。

みなさんに理解して欲しい事:

その時、五比丘は、みな、ソータパナになっていた為、ソータパナ道智を通して、四聖諦を徹底的に了知することができた、特に苦諦法ーー五取蘊に関しては。

五取蘊とは何か?

すなわち、色取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊及び識取蘊である。

色取蘊とは、執着の目標となり得る過去、現在と未来、内在と外在、粗いと微細、劣等と優秀、遠いと近いの11種類の色法の事である。

同様の道理で、

執着を引き起す目標となり得る11種類の受を受取蘊と言い、

執着を引き起す目標となり得る11種類の想を想取蘊と言い、

執着を引き起す目標となり得る11種類の行を行取蘊と言い、

執着を引き起す目標となり得る11種類の識を識取蘊と言う。

この11種類の五取蘊は、苦諦法である。

五比丘は、観智と道智で以て、徹底的に、それらを了知することができたのである。

また、彼らは、集諦法を了知していた、すなわち、(+ソータパナであれば)縁起を観照して、(+その結果)因果関係を了知していなければならないのであった。

苦諦法と集諦法は、行法(saṅkhāra-dhamma)と呼ばれる。

彼らは、容易に、行法を無常・苦・無我として観照することができた。

まさにそうであるが故に、彼らは《無我相經》を聞き終って後、阿羅漢果を証悟することができたのである。

彼らが、快速に証悟できた、その近因と遠因は、以下の二項の要素を具備していた(+が故である):

彼らはすでに、その一生において、観禅の修行をし、ソータパナ果を証得したが、これが近因である。

過去仏の教化の時代、彼らはかつて、すでに苦諦法と集諦法を無常・苦・無我として観照して、行捨智の段階に到達していた、これが遠因である。

この二項の要素の支援の下、彼らは快速に阿羅漢果と、四無礙解智とを、同時に証悟することができたのである。

(+上に述べた)これらの事柄は、彼らの証悟の要素と状況である。

我々は、經文を読んでみようと思う:

(この經は)バラナシの付近の鹿野苑で話された。

その時、世尊は、五比丘の以下の様に、話された:

「比丘たちよ。

色は私(=我とも。以下同様)ではない。

比丘たちよ。

色が私であるならば、

色は疾病に遭遇する事がないし、

また人々は、色をコントロールする事ができ、

以下の様に言うであろう:

『色よ、この様になれ、色よ、あの様になるな』

しかしながら、比丘たちよ。

色は私でないが故に、色は疾病に遭遇し、

人々は色をコントロールすることができない。

(+色をコントロールできるならば、人は言うであろう)

『色よ、この様になれ、色よ、あの様になるな』と。」

色法のこの種の無我の本質は、「不自在」(avasavattanaka)であり、その意味はすなわち、色法は、個人または自我(=我、おのれ、以下同様に)の願いによって、生起することがない;

それらは、因縁が和合して生起するのであり、因縁が壊滅する事によって壊滅するのである。

次に仏陀は、その他の四蘊に関して、以下の様に教導する:

「受は私ではない。

比丘たちよ。

もし、受が私であるならば、

受は、疾病に遭遇する事がない。

また人々は受をコントロールすることができ、

以下の様に言うであろう:

『受よ、この様になれ、受よ、あの様になるな』と。

想は私ではない・・・

行は私ではない・・・

識は私ではない。

比丘たちよ。

もし、識が私であるならば、

識は、疾病に遭遇する事がない。

また人々は識をコントロールすることができ、

以下の様に言うであろう:

『識よ、この様になれ、識よ、あの様になるな』と。

しかしながら、比丘たちよ。

識は私でないが故に、識は疾病に遭遇し、

人々は識をコントロールすることができない。

(+人々が識をコントロールすることができるならば)

『識よ、この様になれ、識よ、あの様になるな』と言うであろう。

この様に、五蘊はみな、不自在なのであり、我々のコントロールできるものではない。

これがそれらの無常の本質である。

その後、仏陀は問答の方式でもって、開示したが、これを「記説」(veyyā karaṇa)と言う。

「あなたはどの様に思いますか?

比丘たちよ。

色は常ですか?または無常ですか?」

「無常です、世尊。」

この問答の中において、我々は五比丘がすでに、徹底的に、色法を照見しており、かつ色法は無常である事を了知していることが分かる。

故に、仏陀は彼らに問いて言う

「色は常であるか、または無常であるか?」

彼らは容易に答えることができる、「無常である」と。

その時、彼らは観智を通して、色法の無常の本質を明確に照見していたのである。

もし、いまだ色法の無常の本質を照見していないのであれば、彼らはその様に答えることができない。

故に、もし、あなたがソータパナ果乃至阿羅漢果を証悟したいのであれば、あなたもまた、己自身の身によって、観智でもって、色法の無常の本質を徹底的に、了知しなければならない。

仏陀の教法に基づくと、色法は微粒の形態で生起する。

これらの微粒(+子)を色聚と呼ぶ。

それらは、原子より更に小さい。

あなたは系統的に、四界分別観を修習した時初めて、これらの色聚を見ることができる。

あなたが色聚を照見する時、それらは生起するや否や、即刻壊滅することを発見するであろう。

しかし、この時はまだ、それらを無常として、観照してはならない。

というのも、あなたはいまだ徹底的に、色法の密集を看破できていないが故に。

あなたは各種の色聚を分析し、その中の究極色法を透視しなければならない。

あなたは、一粒一粒の色聚の中には、少なくとも八種類の色法、すなわち、地界、水界、火界、風界、色彩、匂い、味と栄養素が、含まれている事を発見するであろう。

ある種の色聚には、九種類の色法が含まれているが、それはすなわち、前に述べた八種類に、命根色(jīvita)を加えたものである。

 ある種の色聚は、10種類の色法を含んでいるが、それはすなわち、前に述べた9種類に、浄色(pasāda-rūpa)または性根色(bhāva-rūpa)、または心所依処色(hadaya-rūpa 心色)などを加えたものである。

唯一、あなたが色聚を分析できる様になった、その後初めて、その中の究極色法を分析することができ、その後でようやく、それらの刹那生・滅を無常として、観照することができる。

その時、あなたは容易に、それらの無常の本質を照見することができるであろう。

色法は、合計28種類ある。

その中の18種類は、真実色法であり、それらは観智の目標となり得る;

残りの10種類は、非真実色法であり、それらは観智の目標(注7)になり得ない。

しかしながら、あなたが色法を観照する時、真実色と非真実色は、みな、観照される必要がある。

というのも、もし、非真実色を観照しないならば、真実色もまた観照することができないからである。

例を挙げて説明すると、たとえば、空間(ākāsa)を照見しないならば、あなたは色聚を照見することができない。

空間は非真実色であり、真実色ではない。その他の非真実色法の状況もまた同様である事は、合理的に類推する事。

仏陀が五比丘に色法は常であるか、無常であるかの問題を問うた時、彼らは明確に、色法を無常であると照見していたが故に、「無常である、世尊。」と答えたのである。

次に、仏陀は問う:

「無常であるならば、それは苦であるか、それとも楽であるか?」

「苦です。世尊」

(注7)「28種の色法」に関しては、「付録」参照の事。

(7-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

般若の独り言~縁起

今日、日課にしている水中運動に行った所、ある方が

「貴女尼僧さんだから、拝むんでしょ?」

と、少し小ばかにした様に、両手を拝むように、擦って見せた。

私は

「えぇぇぇ・・・?? 

私たちテーラワーダ南伝仏教の者は、拝んだりしないですけど」と小声でモグモグ、言ってはみたけれど。

水中でスクワットしながら

「色聚(=素粒子)の聚合がどうした、

色法(=クォーク)の刹那生滅がどうした」

等と、仏法の深遠な話をするわけにもいかず・・・。

でも、不思議と腹は立ちませんでした(この方、普段は物腰の柔らかい紳士です)。

縁起ですね。

この方は、仏法の何であるかを知らない。

日本の僧侶方も 《先祖を大事に、朝夕、仏壇の前で手を合わせなさい》 等と教えているのですから、取り立てて積極的に仏教の勉強をしない市民の方々が、仏法について、誤解をしても致し方ない。

すべては、縁起なんだなぁ・・・原因があって、結果がある・・・それ以外の要素は、ない。

すべては縁起・・・この方が私にふざけて見せるのは、彼の心内に鎮座する因と縁によって構成された<概念><思惑>によって選択され表現された所の、態度の一形態であるならば、私が腹を立てる意味がない。

人身受け難し、仏法聞き難し・・・

人として生まれても、

正法を聞くチャンスを持たない人、

聞いても理解できない人、

仏法を誤解している人は

気の毒だ・・・

そう思った一日でした。

(注:<縁起>の本来の意味は、12縁起支のことですが、ここでは簡単に、何事も因と縁によって起こる・・・という意味に使っています)

<緬甸パオ森林寺僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-60(254/430)

 <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

17 如何にして痛苦を滅し除くのか

あなたは、痛苦(=苦痛)から脱離(=逃れる)したいですか?

もし、苦から離れたいのであれば、《諦相經・重閣經》(Kūṭaghāra Sutta、Sacca Saṁyutta)を耳を澄まして聞いて下さい。

「比丘たちよ。

もしある人がこの様に言ったとする:

『苦聖諦を如実に、徹底的に見る必要が無い。

苦集聖諦を如実に、徹底的に見る必要はない。

苦滅聖諦を如実に、徹底的に見る必要はない。

苦の滅に到る道聖諦を、如実に、徹底的に見る必要はない。

それでも私は究極的に、苦を離れることができる。』

ーーこれは不可能である。

比丘たちよ。

もしある人がこの様に言ったとする:

『ビルの一階を建てなくても、私は上層階を建てることができる。』

ーーこれは不可能である。

同様に、もしある人がこの様に言ったとする:

如実に、徹底的に、苦聖諦を見なくても、如実に、徹底的に、苦集聖諦を見なくても、如実に、徹底的に苦滅聖諦を見なくても、如実に、徹底的に、苦の滅に到る道聖諦を見なくても、私は、究極的に、苦から離れることができる。』

ーーこれは不可能である。

しかしながら、比丘たちよ。

もしある人がこの様に言ったとする:

如実に、徹底的に苦聖諦を見、如実に、徹底的に苦集聖諦を見、如実に、徹底的に苦滅聖諦を見、如実に、徹底的に、苦の滅に到る道聖諦を見た後であるならば、私は究極的に苦から離れる事ができる』

ーーこれは可能である。

比丘たちよ。

もしある人がこの様に言ったとする:

『ビルの一階を建てた後に、私は次の上の階を建てようと思う。』

ーーこれは可能である。

同様に、もし、ある人がこの様に言ったとする:

如実に、徹底的に苦聖諦を見、如実に、徹底的に苦集聖諦を見、如実に、徹底的に苦滅聖諦を見、如実に、徹底的に苦の滅に到る道聖諦を見た後であるならば、私は究極的に苦を離れることができる。』

ーーこれは可能である。

故に、比丘たちよ。

『これは苦である』を了知する為に、精勤するべきである;

『これは苦の原因である』を了知する為に、精勤するべきである;

『これは苦の息滅である』を了知する為に、精勤するべきである;

『これは苦の滅に到る道である』を了知する為に、精勤するべきである。」

もし、生死輪廻から解脱したいのであれば、最も重要な事は四聖諦を了知することである。

仏陀は《相応部・辺際村經》(Koṭigāma Sutta、Saṁyutta Nikāya)の中において、非常に明確にこの事を顕示している:

一時、世尊はバッジ族の辺際村に留まっていた。

その時、世尊は、この様に、比丘たちに話した:

『比丘たちよ。

まさに、四聖諦を了知しない、徹底的に見ることがないが故に、あなたと私は、長い間の輪廻の中で、流転し、徘徊した。

それはどの四項(の聖諦)であるか?

比丘たちよ。

まさに、苦聖諦を了知しない、徹底的に見ることがないが故に、あなたと私は、長い間の輪廻の中で、流転し、徘徊した。

まさに、苦集聖諦了知しない、徹底的に見ることがないが故に、あなたと私は、長い間の輪廻の中で、流転し、徘徊した。

まさに、苦滅聖諦了知しない、徹底的に見ることがないが故に、あなたと私は、長い間の輪廻の中で、流転し、徘徊した。

まさに、苦の滅に到る道聖諦を了知しない、徹底的に見ることがないが故に、あなたと私は、長い間の輪廻の中で、流転し、徘徊した。

比丘たちよ。

あの苦聖諦は、すでに了知され、徹底的に見られたのある;

あの苦集聖諦は、すでに了知され、徹底的に見られたのである;

あの苦滅聖諦は、すでに了知され、徹底的に見られたのである;

あの苦の滅に到る道聖諦は、すでに了知され、徹底的に見られたのである;

存在における貪愛はすでに切断され、存在に向かう渠道は、すせい破壊された。二度と来生は、有ることが無い。』

これは世尊が開示した言葉である。

この様に開示した後、善逝大師はまた、以下の様に述べた:

由於不如実 徹見四聖諦

我等長久地 流転種種生

今聖諦已見 有渠已切断 

断除苦之根 更不復再生

(四聖諦を如実に徹底的に見ることがないが故に

我々は、長い間、種々の生を流転した

今、聖諦をすでに見て 渠はすでに切断され

苦の根も断じ除かれた 二度と再生することはない )

(7-1につづく)

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パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-59(252/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

15.1 聞随行

《増支部》(Aṅguttara Nikāya)の《聞随行經》(Sotānugata Sutta)の中において、仏陀は解と行が共に重い(=良好である)比丘には、四種類の結果がある、と述べている。

この様な比丘は、仏陀の教えを暗記して誦し、かつ、観禅を着実に修行して、行捨智に到達している。

しかしながら、彼は、いまだ涅槃を証悟しないまま死亡してしまった。

彼の臨終速行心(maraṇāsannajavana:一生の内の最後の一個の速行心)は行法の無常・苦・無我の本質を目標に取って生起した。

死後、彼は天界に生まれた。

彼の天界での結生心、有分心と死亡心は、みな、同様の、あの本質を目標として取ったのである。

たとえば、もし、前世の臨終速行心が行法の無常の本質を目標にとったならば、天界に生まれ変わった後の、この三種類の心もまた同様に、行法の無常の本質を目標に取るのである。

苦の本質と無我の本質を目標に取る場合もまた同様である。

この三種類の心の中において、有分心(生命相続流)が最も重要である。

彼の、天神としての、この一生の内の、すべての有分心は、行法の本質を目標にするのであるが故に、行法の本質が常に彼の心中に存留(=たくわえられる事)しており、(+そのため彼はそれを)非常に容易にそれを了知することができる。

まさにその様であるがために、行法の本質を思惟するや否や、彼は非常に快速に涅槃を証悟することができる。

これが第一番目の結果である。

第二番目、第三番目の結果は:

彼が天界において、積極的に止禅の修行も、観禅の修行もできないとしても、彼が神通があって、天界に説法に来る比丘が説法する時、または説法天神(=説法の得意な天神)が説法をするのを聞く時、彼は快速に行法を思い出すことができる。

彼が行法の無常、苦または無我を観照する時、快速に涅槃を証悟することができる。

第四番目の結果は:

もし、彼が法を聞く機会に恵まれない場合であっても、前世で、一緒に修行し、かつ、彼より先に天界に生まれた友人が、彼に注意を促す。

その時、彼が、行法を無常・苦・無我として観照するならば、彼は快速に涅槃を証悟することができる。

憍陳如尊者は、かつて、過去仏(特に勝蓮華仏の時)の教化の時期に止観の修習が行捨智の段階まで到達していたため、彼は《転法輪経》(四聖諦に関する法)を聞いた時、快速に涅槃を証悟することができたのである。

16.天神の歓呼

經は、続けて言う:

世尊がこの様に法輪を転じる時、地神が叫んだ:

「世尊はバラナシ仙人堕処の鹿野苑において、無上の法輪を転じた、この転法輪は、どの沙門でも、婆羅門でも、天神でも、魔でも、梵天でも、世間の人間であっても、阻止することはできないものである。」

四天王天の天神たちは、地神の叫び声を聞いて、彼らもまた叫んだ:

「世尊はバラナシ仙人堕処の鹿野苑において、無上の法輪を転じた、この転法輪は、どの沙門でも、婆羅門でも、天神でも、魔でも、梵天でも、世間の人間であっても、阻止することはできないものである。」

当忉利天・・・夜摩天・・・兜率天・・・化楽天・・・他化自在天・・・梵衆天の天神たちは、天神たちが叫ぶのを聞いて、彼らも叫んだ:

「バラナシ仙人堕処の鹿野苑において、無上の法輪を転じた、この転法輪は、どの沙門でも、婆羅門でも、天神でも、魔でも、梵天でも、世間の人間であっても、阻止することはできないものである。」

その刹那、今そこにおいて、その瞬間、叫び声は梵天全体に伝わって行った。一万個の世界系が、何度も動揺し、震動し、顫動し、かつ広大無辺なる、諸天威神を超越する所の、殊勝な光明が現起した。

こうして、世尊は、感じる所あって、以下の話をしたのである:

「憍陳如は、確実にすでに、理解した。憍陳如は、確実にすでに、理解した。」

これがなぜ、憍陳如が「知っている憍陳如」(Aññāsi-Koṇḍañña)という名前を得たか、という由来である。

その他の四人の比丘(跋提迦、衛跋、摩訶那摩、阿説示)に関しては、仏陀は、何度も、如何にして五蘊と縁起を観照するのかを、教導して、その後、彼らに、如何にしてこれらの行法の無常・苦・無我の本質を観照するのかを、教えた。

仏陀は毎日彼らを教え導き、結果、彼らは一日毎に、一人が、ソータパナ果を証悟することができたのである。

憍陳如は《転法輪経》を聞いてソータパナ果を証得した後、即刻、出家を求めた。仏陀は以下の言葉を以て、同意した:

「善来、比丘、法已善説、善修梵行以滅尽一切苦。」

(善く来たれ、比丘よ、法はすでに善く説かれた、善く梵行を修して、

一切の苦を滅尽せよ。」

これは、憍陳如尊者が、比丘戒を受けた時の様子である。

その後、跋提迦、衛跋、摩訶那摩、阿説示もまた、日を追って、ソータパナ果を証悟し、かつ、同様の方法によって、比丘戒を得たのである。

(6-60につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

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パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-58(250/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

14.5 無上円満正覚

仏陀は引き続き開示して述べる:

「比丘たちよ。

私が、この三転12相四聖諦の如実知見に対して、いまだ充分に清浄でないならば、私は諸天、魔、梵天、諸々の沙門、婆羅門、諸天と人間の世間において、無上円満正覚を証悟したと宣揚することはない。

しかしながら、比丘たちよ。

ひとたび、私が、この三転12相四聖諦の如実知見に対して、完全に清浄であるならば、そのとき、私は諸天、魔、梵天、諸々の沙門、婆羅門、諸天と人間の世間に、無上円満正覚を証悟した事を宣揚する。

知見が私の心中に生起し、私は了知した:私の解脱は動揺することなく、これが私の最後の一生であり、私は未来において生まれ変わることがない。」

この三転12相に基づいて、四聖諦を了知する智慧は、彼が阿羅漢果を証悟した後に生起した。

仏陀の阿羅漢道智と一切知智(sabhaññutā-ñāṇa)は、同時に生起する。

同様に、あなたが観禅を修習して、四聖諦を了知する段階に到達した時、この三転12相を通して、四聖諦を了知しなければならない。

一つひとつの諦の、三種類の智慧の中で、諦智が最も重要である。作智と已作智は、証悟の後においてのみ、生じる。

15 憍陳如尊者

經文を続けて言う:

世尊は、この様に言うと、五比丘は、世尊の話に対して、歓喜と欣悦を感じた。

仏陀の開示は、ここで終わる。

しかし、《転法輪経》の經文は、いまさ終結せず、經を聞いた後の結果をいくつか述べている。

經文は以下の様に続く:

世尊が開示を終えると、憍陳如の心中に清浄で汚染の無い法眼が生じて、彼は見た:一切の生起する本質を有する法は、必ずや、滅するのであると。

上記のことは、特に生滅随観智の関して言っているのである:

生滅随観智(udayabbaya-ñāṇa)は、因縁の生・滅と、刹那生・滅を見ることができる。

聞くところによると、《転法輪経》を聞き終えた後、憍陳如尊者は、ソータパナ果を証悟したそうであるが、その時の彼の生滅随観智は、非常に安定したものであった。

それはどの様な智慧であるのか?

それは「一切の生起する本質を有する法は、必ずや、滅するのである」を了知する智慧である。

一人ひとりのソータパナ聖者は、必ずや、すでに徹底的に、五蘊(苦諦)と縁起(集諦)を了知しており、また、必ずや、それらは「行法」であるか、または「縁生法」(samudaya-dhamma、因縁に依存して、その和合により生じる法)であり、不断に生・滅する本質を擁していることを、すでに了知しているのである。

これらの行法の生・滅を知見する観智は「刹那生滅智」(khaṇato udayabbayañāṇa)と言う。

彼はまた、以下の事柄を観照しなければならない:

諸々の因が生起するが故に、五蘊が生起する;

諸々の因が無余に滅尽するが故に、五蘊が無余に滅尽する。

この種の智慧は、非常に堅固でなければならない。

何故であるか?

というのも、ソータパナ道智が涅槃を了知する時、涅槃は禅修行者の心を冷静にする。

涅槃の支援の下、彼の道智は、四聖諦を覆う無明を断じ除く。

あの無明は、ソータパナ道智によて消失したが故に、彼の「一切の生起する本質を有する法は、必ずや、滅するのである」を照見した所の智慧は、非常に堅固に安定する。

ここにおいて、私は、ソータパナ道智によって、すべての無明が消失するなどとは言わないのであって、ただ、四聖諦を覆っていた無明が消失しただけである、と言う、というのも、無明の完全なる消失は、阿羅漢道を証悟して初めて実現するが故に。

ある人が私に訊ねる:

どうして憍陳如尊者は、これほど快速に、果を証得することができたのか、と。

我々は、彼が、彼の過去世で累積した所の、波羅蜜について、考慮する必要がある。

勝蓮華仏(Bhddha Padumuttara)の時代から数えて、彼はすでに10万大劫の久しきに亘って、波羅蜜を修していた。

この様に深くて厚い波羅蜜を具備した人にとって、彼らが聖果を証悟する時、四無礙解智(paṭisambhidāñāṇa)を得ることができる。

四無礙解智の五項の要素に関しては、以前説明したが、過去仏の教化の時代に観禅を修して、行捨智の段階に到達していなければならない、というこの一項(+が重要で)ある。

過去のこれらの波羅蜜によって、彼は、四聖諦に関する法を聞いた時、特に苦諦法と集諦法の(+開示を聞いた)時、彼は、快速に苦諦法と集諦法を無常・苦・無我として領悟することができたのである。

(6-59につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>

 

 

 

 

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-57(248/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

14.3 苦滅聖諦

同様に、仏陀は三種類の方法でもって、以下の様に、集諦を教導する:

「次に、比丘たちよ。

私が『これは苦滅聖諦である』と思惟した時

ーーこれはいままで聞いた事のない法であり、私の心中には目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した。」

これは諦智である。

その意味はすなわち、仏陀はこの滅諦を了知したのである

ーー苦の滅尽である。

仏陀は、どの様にして苦を滅するのであるか?

彼が観禅の修行をする時、彼の観智は、すべての苦諦法(五取蘊)と集諦法(12縁起支)は、無常・苦・無我であると了知したのである。

この様に、観禅の修行が終点に到達した時、彼は涅槃を証悟した。

涅槃を証悟する時、彼は、五取蘊と12縁起支の、無余に滅尽するのを照見したのである。

 

仏陀は引き続き開示して言う:

「比丘たちよ。

私が『この苦滅聖諦は証悟されなくてはならない』と思惟する時

ーそれはいままで聞いた事のない法であり、私の心中には、目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した。」

これは作智

ーーなすべき事柄を了知する智慧である。

あなたが観禅の修行をする時、涅槃(滅諦)の証悟について、尽力するべきである。

次に仏陀は、已作智を開示して言う:

「比丘たちよ。

私が『この苦滅聖諦は、すでに証悟された』と思惟する時

ーそれはいままで聞いた事のない法であり、私の心中には、目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した。」

これは已作智

ーーなすべき事柄をなし終えたと、了知する智慧である。

仏陀は何を成し終えたのであろうか?

彼はすでに、涅槃を証悟したのである;

彼は、己自身が、すでに涅槃を証悟した事を了知した。

あなたが観禅を修行して、涅槃を証悟した時にもまた、己自身がすでに涅槃を証悟したことを了知するであろう。

14.4 苦の滅に到る道聖諦

その後に、仏陀は三種類の方式を用いて、道諦を説明する:

「次に、比丘たちよ。

『これは、苦の滅に到る道聖諦である』と思惟する時

ーーそれはいままで聞いた事のない法であり、私の心中には、目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した。」

仏陀が証悟した時、彼は八聖道分は、苦の滅に到る修行方式であるか、または道路であることを了知した。

同様に、あなたが観禅の修行をする時、八聖道分は、苦の滅に到る修行方式であるかまたは道路である事を了知する事に努力しなければならない;

これは、諦智である。

又続いて、仏陀は作智に関しての開示をする:

「比丘たちよ。

私が『この苦の滅に到る道聖諦は、修行されなくてはならない』と思惟する時

ーーそれはいままで聞いた事のない法であり、私の心中には、目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した。」

観禅の修行をする時、あなたは八聖道分の修行をしなければならない;

これは苦の滅の道である。

私は少し解説を加えたいと思う:

観禅の修行をする時、あなたは、先に、五取蘊(苦諦)を了知しなければならない;

次に、苦の因(集諦)もまた了知しなければならない、特に縁起支を。

これらの苦諦法と集諦法は、行法と呼ばれる。

それらは生起するや否や、即刻壊滅するが故に、無常である。

それらは、不断に生・滅の圧迫を受けているが故に、苦である。

それらの中には、安定的な自我(=私)が存在しておらず、故に無我である。

この様に修行をするのを、観禅と言う。

その時、これら行法の無常・苦・無我の三相を透視するのは正見である;行法の三相に心を投入するのは、正思惟である;

行法の三相を透視する為に努力するのは正精進である;

行法の三相を明記して忘れないのは、正念である;

行法の三相に専注するのは正定である。

この様に、合計五項の聖道分がある。

壊滅随観智の修行に到る時、あなたは、所知(ñāta=知られるもの)と能知(ñāṇa、知る者)が共に、無常・苦・無我である事を観照しなければならない。

所知とは五取蘊または行法の事であり;

能知は、観智の事である。

観智は心路過程の形態で生起するが、この心路過程の中において、一個の意門転向心及び七個の速行心が存在する。

意門転向心刹那の中において、12個の名法があり、一つひとつの速行心刹那の中においては、通常、34個の名法がある。

この34個の名法の中で、上に述べた五項の聖道分は、最も顕著な名法である。

あなたは、この能知の観智もまた無常・苦・無我であることを観照しなければならない。

その時、あなたは、この五項の聖道分を容易に照見できるが、それらこそが、苦の滅に到る道である、というのも、その時、あなたはすでに、生・滅随観智を通して、「五種類の因が無余に滅尽するが故に、五蘊もまた無余に滅尽する」ことを明確に了知したが故に。

八聖道分には、八個の道分がある。

ここまでに、私は、五個の道分に関しての解説をした。

観禅の修行をする前、あなたはすでに、先に、別解脱戒または10戒、9戒、8戒、五戒を守っているかと思われるが、それには正語、正業と正命の、三種類の聖道分が含まれる。

正語、正業と正命もまた、心路過程の形態でもって、相応する名法と共に生起する、故に、あなたはそれらを無常・苦・無我として観照しなければならない。

合計八項の聖道分があるが、これらは、あなたが必ずや修学しなければならないものである。

観禅の末端において、あなたが涅槃を証悟する時、八聖道分は同時に存在するが、あなたはそれらを了知しなければならない。

どの様にして了知するのか?

あなたは、まず、果定智(phala-samāpatti-ñāṇa)でもって、涅槃を了知しなければならない、出定の後、果定における名法を検査する。

もし、あなたが一心に何度も練習するならば、果定の中の名法を見ることができる;

もし、あなたが欲界法または初禅法を無常・苦・無我でると観照する時に涅槃を証悟したのであれば、あなたの道智と果智の中には、それぞれ、37個の名法がある。

この37個の名法の中に、八項の聖道分はすべて含まれる。

しかしながら、もし、あなたが第二禅法を無常・苦・無我として観照する時に涅槃を証悟したならば、あなたの道智と果智の中には、それぞれ、36個の名法があることになる。

この36個の名法の中には、七項の聖道分が含まれる、というのも、正思惟という、この項の聖道分が含まれないが故に。

仏陀は続いて、已作智について開示する:

「比丘たちよ。

私が『この苦の滅に到る道聖諦は、修行されなくてはならない』と思惟する時

ーーそれはいままで聞いた事のない法であり、私の心中には、目(徹底した見)が生起し、智が生起し、慧が生起し、明が生起し、光が生起した。」

こうしたことから、あなたもまた、己自身がすでに八聖道分を修行した事を照見しなければならない。

もし、八聖道分を照見することができないのであれば、あなたはすでに未涅槃を証悟したとは言えない。

二種類の八聖道分がある:

世間的と出世間的八聖道分である。

もし、聖果を証悟したいのであれば、それがソータパナであろうと、サターガミ、アナーガミまたは阿羅漢であろうとも、この二種類の八聖道分は、みな、あなたによって修行されなければならない。

この様に、四諦の一つひとつの諦の中には、それぞれ、諦智、作智及び已作智という、三種類の智慧があり、合計で、12種類の智慧があることになる。

(6-58につづく)

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