Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』#25-4

如何にして無所有処定を修習するか

三番目の無色禅は、無所有処定と言う。その定の所縁は識無辺処定の対象ーー空無辺処禅心ーーの不存在である。

無所有処定を修習する為、あなたは、無辺処定の欠点を思惟しなければならない;

それは、空無辺処定を近い敵として、かつ、無所有処定の寂静には及ばない、という欠点を思惟する;

もはや識無辺処定を求めない(という決意)の元、あなたは、無所有処定のさらなる寂静の本質を思惟しなければならず、その後に、無辺虚空を所縁とする識の不存在(を対象として)それに専注する。

ここにおいて、二種類のジャーナ心が存在する。

一番目は、空無辺処禅心で、二番目は、識無辺処禅心(viññāṇañcāyatana citta)である。

一個の心識刹那(cittakkhaṇa)は、同時に二個の心識を生じさせる事は出来ない為、空無辺処禅心が存在する時、識無辺処禅心は存在しない、その反対も同然である。故に、あなたは、空無辺処禅心の不存在を所縁として取り、かつ、それを「無所有、無所有」または「不存在、不存在」と黙念する。

ジャーナを証得するまで、当該の相に持続的に専注し、その後に、五自在を修習する。

これが三番目の無色禅であり、無所有処定と呼ぶ。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

 

翻訳『親知実見』#25-3

如何にして識無辺処定を修習するか

二番目の無色禅は、識無辺処定という。

この定の所縁は、無辺虚空を対象とする無遍処禅心(Ākāsānañcāyatana citta)である。

識無辺処定を修習する為、あなたは空無辺処定の欠点を思惟しなければならない;

それは色界第四禅を近い敵として、かつ、識無辺処定の寂静に及ばない。

もはや空無辺処定を求めないとしたその後、あなたは、識無辺処定が、更に寂静である事の本質を思惟しなければならない。

その後、無辺虚空を所縁とした識を対象にとり、それに対して、一心に専注し、かつ、それを「無辺の識、無辺の識」または「識、識」と黙念する。

絶え間なく、無辺識の相に専注し、ジャーナを証得し、その後、五自在を修習する。

これが第二番目の無色禅であり、識無辺処定と呼ぶ。

<翻訳文責:緬甸パオ森林寺院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

般若の独り言~三年日記

去年の年末に、三年日記帳を購入しました。

子供の時に、夏休みの宿題ではない、自発的に日記を書いた事はありますが、

「誰々が嫌い」とか

「誰々に意地悪された」とか、

ネガティブな事を書いている内に、自分でも嫌になって、一か月程で挫折するのが、常でした。

今回、認知症予防の為もあり(私、現在72歳)、日記を書く事にしました(注1)。

今の所、毎日、しっかり続ける事が出来ていますが、それにはちょっとした仕掛けがあります。

例えば、2月15日に、16日の欄に、16日の予定を書いてしまいます。17日になると、16日を振り返って、予定通り処理した事柄、達成できなかった事柄を確認して、その上で、感想や注意事項等、必要な内容を加筆します。

こうしますと、悲しかった事、ネガティブな事、特に、他人の悪口を書かなくて済みます、いえまぁ、多少は書きますけど(笑)。

最近は、暖かい日が続きましたが、ここ Y盆地は九州の網走、3月のお雛様までは、まだまだ寒いだろうと覚悟していましたら、昨夜は突風の嵐、今朝起きてみますと、真っ白な雪景色・・・

私の軽は、冬用タイヤを履いていないので、今日はどこにも行きません。

(注1)鉛筆を使って、漢字をしっかり思い出しながら書いています。最近は、PCのキーボード入力が多く、漢字を忘れてしまっているので、これはよい脳トレになります。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

般若の独り言~仏教は難しい

今私は毎日、パオ・セヤドーの著書

『親知実見』 (Knowing and Seeing)

を翻訳していますが、疲れると

『生活と修行の為のアビダンマ』(中国語版)

という本を、気分転換に、手に取って読みます。

この本の中に、

【(高僧であっても)仏教は説明するのが難しい、

それは四つあって

1、四聖諦(苦・集・滅・道)の説明が難しい・・・

2、衆生の説明が難しい・・・

(男性、女性、犬、猫などの衆生はいない、すなわち、有情、生き物は<無我である>が故に存在しないのだ、という説明が難しい。

↑ これは、素粒子物理の学びが役に立つかと、思います。ダライ・ラマ猊下も、『素粒子物理の研究が進んだお蔭で、仏法の説明が楽になった』と述べています

3、世間と出世間の説明が難しい・・・

(世間とは五(取)蘊、名色の事であって、我々が

「世間、世の中は、世知辛いよなぁ」

という時の <世間> とは、まったくの別物ですが、この説明がなかなか難しい。)

4、縁起の説明が難しい・・・

(縁起とは何か?という、定義そのものに関しては説明できても、例えば、同じ出来事、同じ事件を聞いても、Aさんは怒り、Bさんは悲しんだりする、その怒りや悲しみ、幸せや不幸の、具体的な、因と縁と果の絡まり合いを、解きほぐして説明するのは難しい。

それは仏陀にしかできず、凡夫にはできないのだ、と言われています。)

出家者が在家者に仏法の説明、法話、開示をする時、立ってするな、という戒律があるのですが、教えを乞う者は、座して三礼(注1)の後に、心して聞くべし・・・

それでも仏法(アビダンマ)は難しすぎて、よく分からないのですよね(笑)。

一生学び、一生修行。

(注1)仏、法、僧に各一礼で、合計三礼

<僧>は複数形で、サンガの事。

個人単数では、僧侶といい、出家比丘、サヤレー、在家者が三礼する時、目の前の僧侶個人に、礼拝している訳ではない。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

 

翻訳『親知実見』#25-2

如何にして空無辺処定を修習するか

四無色禅を修行する為、あなたは、先に物質の過患を思惟しなければならない。

人間の身体は、父母の精卵が結合して生じたものであり、それは、所生身(karajakāya)と呼ぶ。

所生身を擁している為に、刀、槍、弾丸などの武器による傷害を受けるし、攻撃や殴打、虐めにもあう;

所生身はまた、眼病、耳病、心臓病などの各種の疾病を罹患する事もある。

故に、あなたは智慧でもって、色法によって構成された所生身があるが故に、各種の痛苦に出会うのだということを理解するべきである;

もし、色法を離脱する事ができるのであるならば、痛苦を逃れることができる、という事である。

たとえ、色界第四禅が、粗くて劣等な有形の物質を超越するものであるとしても、しかし、やはり、それ(所生身)を基礎として、はじめて(色界第四禅を)成就する事ができるが故に、あなた遍処色を超越する必要がある。

この様に思惟して、もはや遍処色を求めない様にして、九遍の中の<注115>ある一つの遍(例えば地遍)を利用して、再度第四禅を復習し、出定の後、その欠点を省察する;

それは、もはや色法を求めないという基礎の上に、第三禅の楽を近い敵として、四無色禅より粗くて劣っている(と思惟する)。

しかし、あなたは、名法(二つの禅支)の欠点を思惟する必要はない。というのも、それらは、無色禅のものと同一であるが故に。

色界第四禅を求めないと決めた後、あなたは、無色禅の、さらなる寂静の本質を思惟しなければならない。

次に、地遍の遍相を拡大し、それを無辺無際とするか、またはあなたが希望する所の大きさまで拡大し、遍処色が占拠していた空間を虚空で代替えし、当該の虚空をば「空、空」または「無辺の虚空、無辺の虚空」として、専注する。

この時、そこに残るのは、元々遍相が占拠していた所の、無辺虚空である。

もし、これが達成できないのであれば、あなたは、地遍の遍相の、ある一部分の空間を識別し、かつ専注して、その後に、これを無辺の宇宙にまで拡大する。

この様にすれば、地遍の遍相全体は、無辺の虚空に代替えされることになる。

ジャーナを証得するまで、無辺虚空の相に専注し続け、その後に五自在を修習する。

これは、一番目の無色禅であり、空無辺処定と呼ぶ。

 

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎> 

翻訳『親知実見』Knowing and Seeing #25-1

四無色禅

あなたがすでに十遍の、一つひとつの遍でもって、四種類のジャーナを成就した後であれば、あなたは、四無色処と呼ばれる所の四無色禅(arūpa-jhāna)を修行することができる。

それらは:

1、空無辺処(Ākāsānañcāyatana)

2、識無辺処(Viññāṇañāyatana)

3、無所有処(Ākiñcaññāyatana)

4、非想非非想処(Nevasaññānāsaññāyatana)

あなたは、虚空遍以外のすべての遍を用いて、これらを修習することができる。<注114>

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>

翻訳『親知実見』#24-3

如何にして水遍を修習するか

水遍を修行する為に、あなたは、鉢の中にある水、または桶の中にある水、または井戸の中の純潔で透明な水を用いることができる。

水の概念に対して「水、水」と専注する。

取相に成功するまで、地遍の様にそれを修習する。

 

如何にして火遍を修習するか

火遍を修行する為に、あなたは、蝋燭、たき火、またはあなたが過去に見たことがある炎を用いることができる。

もし、相を取ることができないのであれば、あなたは、一枚のカーテンを作り、その真ん中に30cmほどの丸い穴を開ける。

このカーテンを、燃えている木材または枯草の炎の前において、あなたがこの穴を通して、炎しか見えない様にする。

煙、または燃焼中の木材や枯草に注意を払わない様にして、ただ、火の概念に対して「火、火」と専注する。取相に成功するまで、上に述べた様に、修習する。

 

如何にして風遍を修習するか

触覚または視覚によって風遍を修することができる。

あなたは、窓から吹きこんで来て、かつ、あなたの身体に接触する風、または風の中で揺れる木の葉または木の枝を見る事によって、(所縁に)専注することができる。

風の概念を「風、風」として、相を取る事に成功するまで、専注する。

あなたはまた、再度のその他の遍の第四禅に入り、禅定の光を運用して、外在する木の枝の揺れ動くのを照見して、その事によって風相を識別する。

取相は、熱い牛乳粥の上から昇ってくる湯気の様であり、似相は、静止して不動となる。

上に述べた方法でもって、遍の相を修習する。

 

如何にして光明遍を修習するか

明遍を修習する為に、あなたは壁の隙間から室内の漏れ込んで来て、かつ、地上に投射される光線に注視したり、また、樹木の木漏れ日が地上に照射する時の光線を注視することができるし、また、空を仰ぎ見て、樹木の枝を通して、天空の光を見ることもできる。

もし、相を取ることができないのであれば、あなたは、陶器の缶の中に一本の蝋燭、またはランプを置き、その缶を、光が壁に投射できる場所に置く。

壁の上の円形の光明の概念を「光明、光明」として、専注する。

相を取るのに成功したならば、上に述べた方法でそれを修習する。

 

如何にして虚空遍を修習するか

虚空遍を修行する為、あなたはドア、窓または鍵穴の空間を注視する。

もし、相を取ることができないのであれば、あなたは、一枚の板の上に直径約20~30cmの丸い穴を開ける。

板を立てかけて、あなたは、この丸い穴を通して、樹木やその他のものが全く見えず、天空しか見えない様にする。

丸い穴の中の空間の概念を「虚空、虚空」とし、かつ、上に述べた方法によって遍相を修習する。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>