Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

2018-02-05から1日間の記事一覧

「身念処」3-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2、因縁智を掌握する 修行者は、第一階智を体験・証悟した時、もし、彼が更に続けて<今・ここ>において、身・心を観照するならば、彼は多くの種類の色身と、多くの種類の心がある事を体験・体得する。また、観…

「身念処」3-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 鋭利な実相般若は、我々(+修行者)の邪見をば、修行者自身の感覚の中から、根こそぎ取り除く為、今、修行者は、身・心の自然な真実の状態(実相)を見る事に成功した。 修行者がこの智を成就する時というのは、…

「身念処」3-1(116/203)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 第三章 成果 聖者は生死輪廻を脱し離れ、一切の貪愛を断じ尽くした。涸れた河道の中、愛水は二度と奔流する事はなく、生死の巨大な車輪は、二度と回転する事はない。 これが苦の止息;涅槃である。(小部ニカーヤ…

「身念処」2-30

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-4 結論 正しい修法は、正しい結果を招く。 正しい修行は、智慧と、以前の資糧(多くの生による所の、正しい修行の累積)による。 重要なのは、この種の修法は、我々が身・心を「私」自身だ妄執する所の邪見か…

「身念処」2-29

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-3-7 その他 病気は、修行の障礙にならない。しかし、修行者の多くは、(+病のために)座る色身を感じ取る事ができなくなる。というのも、このようにすれば、病状が更に悪化するからである。 彼はただ、疾病…

「身念処」2-28

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 修行者は、姿勢とは、(+一つの)「色身」のみ、ということはなく、座る色身、歩く色身など等、異なる色身がある事を(+知っておかねばならない)。 そうでなければ、修行者は、同じ色身が立っていたり、座って…

「身念処」2-27

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この種の修法にとって、定に偏り過ぎるのは、よい事ではない。 (+定が過分の時)座って観照する時、修行者は、ただ座っている姿勢を知っていて、座っている色身を知らない; または同様に定が過分の時、修行者…

「身念処」2-26

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-3-4 身・心 この修法に関して、身・心を所縁としている事を理解するのは、修行者にとって、非常に重要な事である。 もし修行者において、身・心に対して、覚照し続ける力がないのであれば、非常に勇猛に精進…

「身念処」2-25

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-3-3-1 修行者が己自身へ発するに適した質問 1)座る色身は常であるか、無常であるか? 無常である。 2)我々は、なぜ、無常であることが分かるのか? 苦が常に我々に色身(+の姿勢)を転換させるように迫る…