Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

2018-07-21から1日間の記事一覧

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-36

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <総括してみるに・・・> 欲貪の心に対する束縛が切断されたならば、すなわち、阿那含を証した事になる。 引き続き、阿那含は継続して、この成果を齎した所の観察の技巧を練習して、更に深く分け入り、これを拡…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-35

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 念住と智慧は、慣性(=習慣)となるーーそれらは、非凡な速度と巧みな協調性をもって、運用される。 この観察が頂点に達した時、身体の影像・イメージは、出現するや否や、消失するようになる。 これらの影像・…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-34

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この段階において、外部にある全面的認識と、心自身の内部にある映像・イメージは融合する。 我々は以下のように言うことができる: 少なくともすでに、欲望への観察は、50パーセントは完成していて、修行は、す…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-33

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <この説明を導きとして> 私のこれらの説明は、前方にある道筋を指し示しているのであって、一言一句聞き漏らさずに暗記する為の、授業をしている訳ではない。 私はこれまで、私の体験を具体的に説明するのを好…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-32(35/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 最後に、智慧による、身体の不浄の本質的核心への洞察が、最大限純粋に熟した時、あなたは人をして嫌悪させる所の肉、骨を目の前に並べて、自問しなければならない: この人をして嫌悪せしめる感覚は、一体どこか…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-31

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 身念住における禅修が、理性と成績(=成果)の二者と智慧とが、完全に結合する段階に入った時、禅者は、実に不思議な事に、昼夜止まる事無く、完全に、身体の観察に浸透する。 智慧は、ある種の速度と巧みさをも…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-30

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <身体を思惟することの重要性> 我々の主要な欲望は、みな身体と関連・結合している。 我々の周辺を、見まわしてみよう。 我々は、性欲をしっかりと掴み、人体をば、狂ったかのように貪恋する世界を、見ることが…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-29

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 身体が分解されて、本来の元素に戻る時、腐乱する自然な過程を観察する。 腐乱と分解は、有機的な一切の生命の、自然な過程であり、あらゆるものは、それらを構成する所の元素に戻るが、最後には、その元素もまた…

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-28

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 修行する時、一回また一回と、各種の智慧を利用し尽くして、智慧が想定できる所のものを透視し、あなたが全面的に、身念住の法門における、想像出来うる限りの、各種の方面を掌握し、身体の本質を不断に探索する…