Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

2018-08-02から1日間の記事一覧

《Vipassanāハンドブック》22-1(F)★

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (二十二)度遍知の解説 観智(insight)と関連する三種の智能は、三相の特色について、充分に物語っているために、これを度遍知(tiraṇa-pariñña)という。 観智と関連する三種の智とは: 1、無常随観智(anicc…

《Vipassanāハンドブック》20-16(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 人と衆生の、主要な特性とは、身・心の快楽(=楽しさ)に対する、渇望である; 現象界の顕著な特徴とは以下の通りである: 現象界の因または有為法は、一致性があるが、その一致性とは; 現象界の生・滅には、み…

《Vipassanāハンドブック》20-15(F)(70/80)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 仏教の哲学の中で、三種類の永恒不朽があるが、この三種類の不朽は、本文中において、特定の意義を付与されている。 この三種類の不朽は、パーリ語では: paññatti(概念または観念)、 ākāsa(空間)、 nibbana…

《Vipassanāハンドブック》20-14(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ポットの説明をする時、もし、人々が以下の様に分別できるならば(+それは好ましい): 泥土は一つの事物であって、ポットはまた、別の事物である事。 泥土は最終的な、基本的事物であり、ポットはただ、心が認…

《Vipassanāハンドブック》20-13(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> もし、人が、「このポットのような物は、世界に存在しているか?」と問うたならば、あれら、ニ種類の真理ーー真諦と俗諦を区別することのできない人々は、以下のように言う: 「このポットは存在する」 その後に…

《Vipassanāハンドブック》20-12(F)★

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 三、無我相 精神と物質現象(心法と色法)は、実体がないと理解される。 また、それは無我相(anatta-lakkhaṇa)と呼ばれる。 anatta の文字の意味について考える時、先に atta について、理解しなければならない…

《Vipassanāハンドブック》20-11(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 悲苦(soka-dukkha)、憂傷苦(parieva-dukkha)、身苦、心苦と絶望苦(upāyāsa-dukkha)は、常に人と天人について回る。 機縁が熟した時、それらは常に、チャンスを伺がって生起する。 泥犂(niraya)地獄と餓鬼…

《vipassanaハンドブック》21-10(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (3)果報生苦 果報生苦について、煩悩生苦と業生苦の恐ろしさ(+と比べても)、生死輪廻の内において、苦趣に往生する事も、(+後二者と)同じ様に恐ろしい事柄である。 故に、多種多様な衆生は、苦の生命の…

《Vipassanāハンドブック》21-9(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (2)業生苦 業生苦のうち、身・口・意によって生じる所の不道徳的行為は、薫習された煩悩の結果であり、故にそれらは、煩悩と同じ様に強烈である。 その為、業生苦は、真正に、すべての聖者の懼れる所の「苦」…

《Vipassanāハンドブック》21-8(F)(65/80)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (1)煩悩生苦 煩悩生苦の内、貪は非常に恐ろしく、強烈である。 貪は、随時に生じる。 それは、それが「喜ばしい」と思える外境を見つけさえすれば、火薬に火をつけるが如くに爆発し、その威力は、非常に強大で…

《Vipassanāハンドブック》21‐7(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (三)壊苦(vipariṇāmadukkhata) 壊苦は、壊滅の状況を言う。 状況がいかに順調であうろとも、何時の日にか、身体は必ずや老衰し、破壊される。 故に、人、天人と梵天の身体または生命の存在は、真正なる苦であ…

《Vipassanāハンドブック》21-6(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (一)苦苦(dukkhadukkhta) 苦苦とは、身体及び精神の苦痛を言う。 (二)行苦(saṅkhāradukkha) 行苦は、色法と心法が遭遇する所の苦であり、この種は唯一以下の内に存在する: 心が常に限定され、制限され、…

《Vipassanāハンドブック》21-5(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 二、苦相 簡単に言えば、変異と継続生起の変異の内の無常相は、苦相とも言われる。 というのも、生死輪廻の中で、それらは智者によって怖れられるが故に。 それらに対して智者はなぜ、畏怖するのか? というのも…

《Vipassanāハンドブック》21-4(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 白昼、この二つの詞:「見える」と「見えない」は、使われるに違いない。 もし、障礙がないならば、ある人は見える: 障礙があるならば、ある人は見えない。 瞼は、開けば見えるが、瞼を閉めていたならば見えない…

《Vipassanāハンドブック》21-3(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 心法の方面においては、心と心所がある。 心法の無常相は、二個の明確な特徴があるが、それはすなわち、徹底的な変異と継続生起の変異であり、我々は明確にそれら心法の無常相を見ることができる。 世間では、多…

《Vipassanāハンドブック》21-2(F)(60/80)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> これらの移動の発現によって、今日、ある種の西洋の人々、たとえば、leibnitz(ママ)とfetiner(ママ) は、これら色法は、生物であると信じている。 しかし、実際は、それらは生物ではなく、移動の現象は、物理的変…

《Vipassanāハンドブック》21-1(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (二十一)三相 いわゆる三相(法印)ーー三個の明確な標記または、その特徴とは: 1、無常相(anicca-lakkhaṇa): すべての人、事、物は無常である事。 2、苦相(dukkha-lakkhaṇa): 諸々の苦が逼迫する相。…

《Vipassanāハンドブック》20-8(F)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 栄養素によって生じる諸蘊については、貧困の問題、肉などを食せているかどうか、生命力が旺盛か、それとも欠けているかなどを、考慮する必要がある; いわゆる旺盛な生命力とは、食物が胃に入った後に生じる所の…