wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書(主にテーラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言<是誰庵のひとやすみ>。

仏教

是誰庵のひとやすみ~再び vipassanaについて    ~パーリ語マジック~

日本では、 vipassana という言葉が一人歩きをして、 非常に混乱しているように思います。 私たちが安般念(出入息の瞑想)をして、意識が少し深くなる時、例えば遍作定とか近行定とかの時点で、身体の色々な変化が<見えて>きたりします。 これまで、のん…

「身念処」2-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-1-3 中道 中道は、好き、嫌い、執着または嫌悪(+の感情を)取り除くか、または止息したものである。 中道は、この修法にとっては、非常に重要である。 もし、あなたが正念正知を具足して、<今・ここ>において…

「身念処」2-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-1 修行要点 2-1-1 四種類の姿勢 我々は、四種類の姿勢において、身・心を観照する: それは、行・住・坐・臥である。 《大念処経》の綱要において、四種類の基本的なまたは、主要な姿勢(+について述べられて…

「身念処」2-1(82/203)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 第二章 実修 永い間、以下の事柄に執着してきた:これは私の、これは私、これは私自身。 (相応部ーニカーヤ) 臘月三十は、もうすぐにやってくる。 その時、あなたが行住坐臥(+歩くいていようが、立っていよう…

「身念処」1-87(81/203)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (P80、図の説明につき、全頁省略。p81上段、同、省略) ( ↓ p81、下段) 愛(=渇愛)の結果(が輪廻である事)を理解したならば、諸法は、常で、生・滅異変しないという妄執のある人、また貪欲心が非常に重い…

「身念処」1-85

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-12-1 如何にして12縁起でもって邪見を破るのか? 12縁起の真相を理解したならば、智慧の力でもって、顛倒妄想を打ち破る事ができる。 1、無明: <無明の縁によって行あり>を理解する事によって、(+己より…

「身念処」1-84

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ある時、アーナンダは、縁起の法がどれほど良いものであるか、どれほど理解し易いものであるか、仏陀に告げて言った時。 「並非如此(そうではない)」 仏陀は述べる: 「縁起の法は、玄妙であり、かつ、奥深く、…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」2-7

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> そして、「諸々の小さな(聖典)」は、〈帰依〉、 〈学処〉、〈32行相〉、〈問童子文〉、《吉祥経》、 《宝経》、《牆外(経)》、《伏蔵(経)》、《慈経》という、九つの部分で構成された《小誦(Khuddakapāṭha…

「身念処」1-83

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> a)無明から老・死までが、一つの縁起の法である。 その後の、「憂い、悲しみ、苦悩」等々は、踵を接して、その直後に続くものである。 上記は、生が有れば、苦がある事を表しているーー第一聖諦。 この種の、現…

「身念処」1-82

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1、無明を縁として、行(注1)あり。 2、行を縁として、識あり。 3、識を縁として、名色あり。 4、名色を縁として、六入あり。 5、六入を縁として、触あり。 6、触を縁として、受あり。 7、受を縁として…

「身念処」1-81

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-12 12因縁(縁起) 12縁起は、一連に繋がった因果である。 それは12個の環によって、円形の鎖が形成されているものである。 またそれは、生死輪廻の因縁関係を説明しているものでもある。 12縁起とは、因と果の…

「身念処」1-80

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 修行においては、堅実を(+虚構と)見破らなければならないが、そのためには、身・心を観照しなければならない(身・心の識別のために、特殊なチャレンジをする必要は無い)。 修行者は「座っている色身を知って…

「身念処」1-79

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 修行者は「如理作意」でもって、身と心を分けなければならない。 このような(+視点を持って)初めて、(+身と心が)一つの個体には見えなくなる、という訳である。 もし、「如理作意」がないのであれば、我々…

「身念処」1-78

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 実相を体験・体得した後、厭離の心は生起する。その為、煩悩は弱くなり、気力、意志力は更に強くなる。 その後において、四念処智を成就して、五蘊に対する貪と瞋恚を断じ除くことができる。 3)堅実。身・心の…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」2-4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> (《諸々の小聖典》の範囲の確定) この中において、「私は将に、いくつかの諸々の小さい(聖典)の意味について」と(+私が)述べている事に関して、先に「諸々の小さい(聖典)」(の範囲)を確定した後、その…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」2-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 第二章 三帰依の内容ーーパーリ聖典の解釈 一、《小誦経》の註釈 Namo tassa Bhagavato Arahato Sammā sambuddhassa. 彼の世尊、阿羅漢、正自覚者を礼敬 (=敬い礼拝する事、以下同様)します。 Paramattajotikā…

是誰庵のひとやすみ~パオ・メソッドは終わらない

私が台湾で若い仏教徒の女性から、パオ・セヤドーの著書『智慧之光』(中国語版)を貰ったのは、確か1998年頃の事だと思います。 最初のページを読んで衝撃を受けた私は、その本を日本に持って帰り、日本語に翻訳して、Web上に公開しました。 ただ、この本と…

「身念処」1-77

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> もし修行が、智慧(内観)でもって苦を体験・証悟するのではないのならば、それは正しい修法ではないし、中道法(すなわち、八聖道)ではない。 唯一、苦を体験・証悟した時にのみ、あなたは輪廻を離脱できる――と…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」1-12

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 四、在家10戒(Gahaṭṭha-dasasīla) 三帰依と在家10戒の求受 Ahaṃ,bhante, tisaraṇena saddhiṃ gahaṭṭha-dasasīlaṃ dhammaṃ yācāmi, anuggahaṃ katvā sīlaṃ detha, bhante. (尊者、私は三帰依と在家10戒の法…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」 1‐10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 三帰依 (<1-5>既出により省略)。 八戒 ☆比丘が一条(または一句)念じる毎に、受戒者は続けて念ずる: 1、Pāṇātipātā veramaṇī sikkhāpadaṃ samādiyāmi. (私は殺生を離れる学処を受持します) 2、Adinnād…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」1-9(10/228 )

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 二、布薩八支戒 (Aṭṭhaṅga-uposathasīla) 三帰依と布薩八戒の法の求受 Ahaṃ, bhante, tisaraṇena saha aṭṭhaṅga samannāgataṃ uposathasīlaṃ dhammaṃ yācāmi, anuggahaṃ katvā sīlaṃ detha me, bhante. (尊…

「身念処」1-76(67/203)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 明覚(=明確な覚醒心)の作用が生起する時、前の姿勢の苦苦を、非常に容易に体験・体得する事ができる。 ただし、行苦(新しい姿勢に転換した後にも、まだ残る苦)は、非常に体験・会得しにくい――というのも、新…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」1-8

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 発願と回向 Idaṃ me puññaṃ āsavakkhayā’vaham hotu. (私のこの功徳によって、諸々の漏が尽きるよう導き至れる事を願います) Idaṃ me sīlaṃ nibānassa paccayo hotu. (私がこの戒を持する事をもって、涅槃の縁…

是誰庵のひとやすみ~仏教徒は謙虚であれ

昨日のブログ「nimittaは万能か?」でも書きましたが、 仏教徒は特に謙虚でなければなりません。 修行が進んでいる人は、尚更に。 パオ・メソッドで修行が進んでいる人は、己の過去世が分かっています。過去には人であった事も、動物であった事もあるでしょ…

「身念処」1-75

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 明覚(=明瞭な覚醒心)でもって、各種の姿勢を継続して観照する時、如理作意でもって煩悩を防止して、内心に好き、嫌い(+の感情)を生起せしめないようにしなければならない。 このようにして初めて、修行者は…

是誰庵のひとやすみ~印可・印証は必要か?

我々仏道の修行をする者の内に、自分の指導者から「よし、それでこそ私の弟子だ」「私が印可・印証しよう」と言われるのを喜ぶ人が、一部において存在するようだ (中国禅宗慧能禅師の衣鉢伝承物語の影響か?)。 通常、禅の指導者は印可・印証はしない。 パ…

「身念処」1-74

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 身体の無常は、思慧で体験・会得できる。 しかし、心の無常は、(+身体より)更に微細なため、体験・会得しにくい。 姿勢を変える時、例えば、座っている色身から、立っている色身に変る時、我々は座っている色…

「身念処」1-73

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1)相続。身・心の生・滅は、かくの如く迅速なため、我々にはその生・滅の現象が見えない。故に、我々は身・心は連続しているのだと誤解してしまう。それはちょうど、銀幕上の映画の影像が、連続しているように…

「身念処」1-72

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-11 三法印を隠蔽する因縁法 三法印とは、身・心が無常・苦・無我であり続けている状態を指す。しかし、なぜ我々は、己自身の身・心において、三法印を体験することができないのであろうか? それは三法印が、あ…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」1-5

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 三帰依 比丘が念ずる:Namo tassa、 その時、受戒者は直接、この礼敬詞を三回念じるか、または比丘が一句念じて、その後に、受戒者が一句念ずる。 比丘:Namo tassa Bhagavato, Arahato Sammāsambudhassa(3x) 彼…