wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書(主にテーラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言<是誰庵のひとやすみ>。

仏教

是誰庵のひとやすみ~「此是道汝応修」(翻訳番外編)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> マレーシアから「此是道汝応修」という本が届きました。 著者はアチャン・チャーのお弟子さん、アチャン・タン。 その中にとてもよい問答を見つけましたので、翻訳(番外編)してお送りします。 問:アチャン・タ…

是誰庵のひとやすみ~ラべリングは有効か

もう20年前かそれ以上前、日本にテーラワーダ旋風が吹き荒れました。 スリランカの某長老が、マハーシ瞑想法を紹介して、これまで禅宗の座禅で上手く行かなかった人、念仏は迷信みたいで嫌だという人たちの心を引き付けたのです。 では、マハーシ瞑想は何を…

是誰庵のひとやすみ~ vipassanā とは何か?

緬甸(ミャンマー)のパオ僧院の長パオ・セヤドーが教える、いわゆるパオ・メソッド(ご本人はこう言われるのを嫌っています)が、瞑想好きの人々に人気があるのは、 似相(nimittaの光)が見えるようになると vipassanā という名の、観照の修行ができるよう…

是誰庵のひとやすみ~一人ぼっちの仏教徒

今、私は「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」(原題「南伝仏教在家居士須知」)という、台湾のテーラワーダ比丘の著書の翻訳を始めました。 その最初の文章、いきなり<三帰依文>です。 仏教徒になって仏陀、ダンマ(仏法)、サンガに帰依し…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」1-4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 前篇 帰依、受戒と持戒 第一章 帰依と受戒 一、五戒(Pāañchasīla) 三帰依五戒法の求受 Ahaṃ, ahaṃ bhamte, tisaraṇena saha pañcasīlaṃ dhammaṃ yācāmi, anuggahaṃ katvā sīlaṃ detha me, bante. 尊者、私は三…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」 1‐3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ここにおいて特に注意して頂きたいのは; 我々はゴータマ仏陀の制定した戒律について検討しているだけであって、持戒をしない人たちを批判している訳ではありません。 在家信徒は、この書を通して、一方で、出家…

「テーラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」1-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <編集と翻訳についての序説> 台湾の南伝仏教(=テーラワーダ仏教、以下同様)は、未だ開墾を待たれる、未開発の荒野のようである! 多くの、テーラワーダ仏教を学びたいと思っていながら、何から始めていいの…

「テーラワーダ在家居士帰依戒律ハンドブック」   翻訳始めます

11月2日の<マハーカルナー法友会>解散事件から21日、今日で、3週間たちました。 日本全体を揺るがす大事件とは言えませんが、テーラワーダを学ぶ方々には、大変に大きな衝撃でした。 私もパオ僧院出身の sayalay として、マハーカルナー禅師への質問状を書…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-122

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 8-10-2 正念と正知 ここでは、自性に基づいて、正念と正知についての解説をする。 正念の特徴は、目標を憶念する事、覚えておく事であり、それは例えば、安般念の似相のようなものである。 その作用は、目標を見…

是誰庵のひとやすみ~起心動念

<マハーカルナー法友会>の解散事件からこのかた、心が少々ザワザワします。 そろそろ修行に戻りましょうか。 みなさん法話を聞く場所がなくなっても、座禅・瞑想する場所がなくなっても、修行はできます。 己の五蘊が法であり、己の身・心が、修行の場なの…

「身念処」1-67

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-9 サマタと vipassana 修法の違い 二種類の修行方法があり、それはサマタとvipassana 修法である。 サマタ修法 1)真実の自性は定で、平静な心の状態を生じる(+ことができる。) 2)修行の所縁は仮法(伝統…

テーラワーダ比丘の女性への態度について

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 問:尊者、なぜ、テーラワーダの比丘尊者は、見た感じ非常に厳粛で、ご自分から我々に挨拶しないし、我々を見送ったりもしないのでしょうか? 答:テーラワーダの比丘は、仏陀の教えを実践する為に、厳粛で、真剣…

テーラワーダ比丘の戒律ーお金とカードの取り扱いについて

ブログの読者の方から「テーラワーダの比丘は、カードで買い物をしていいのですか?」という質問を頂きました。 私はテーラワーダの女性出家者で、sayalayという身分で日本で庵を結び、戒律は、8戒を受けています(パオ本山にいた時は、10戒)。 通常、出家…

是誰庵のひとやすみ~台湾僧侶の予言

もう40年程前でしょうか。 私が仕事(中国語通訳)で台湾に滞在した折、台北の本屋さんで『阿含正見』という本を見つけました。 著者は釈従信、比丘です(大乗のお寺を出て、ご自分の精舎をお持ち、とのことでした)。 この本を読んで感動した私は、従信師に…

是誰庵のひとやすみ~修行の場

11月2日に<マハーカルナー法友会>が解散されてから、巷では色々な噂が飛び交っているようです。 噂は噂、自分の毎日の修行は、コツコツと続けましょう。 今回の事件で、修行の場を失った(とお思いの)方。 私が2015年6月26日から翻訳を始めて、このブログ…

「身念処」1‐65

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 妄想心も同様であって、もし、修行者が妄想心をコントロールしたいと思い、専注や(+心が長く)平静で(+あり続けたいと強く望むならば)これも貪になる。(+この時)もし、修行者が妄想をコントロールできな…

カルマ論について

カルマは、日本語では業(ごう)といいます。 その意味は、人間一人ひとりの心には、ある種の癖があり、その癖がその人の行動に、ある種の方向性を持たせ、その行動の方向性によって、人生が、幸せにも不幸せにもなる、という考えです。 これは仏教でも言わ…

「身念処」1-64

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 三番目――潜在的な煩悩(漏): これは微細な煩悩で、例えば痴(邪見)のようなもの。 唯一、実相般若のみが、この種の潜在的な煩悩を断じ除く事ができる。 もし、三番目の煩悩を、断じ除く事ができるならば、第一…

「身念処」1-63

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 煩悩と智慧は、心に命令して、身体にしてもらいたいと思っている事柄を、身体に要求させる事ができる。 煩悩が「我々は散歩に行こう」と言う時、楽しみを探しに行く、という訳である。 智慧は、座る姿勢が痛い時…

「身念処」1-62

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-8 不善根:悪行の根源(無明煩悩) 三個の不善根がある: 貪、瞋(=怒り)、痴(=無知)。 愛(好き)は、一種の貪であり、憎(好きでない)は、一種の瞋、怒りである。 愛と憎は、同時に発生する事はない。…

「身念処」1-60

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-7 精進ー正念ー正知、如理作意と観察力 定義: a)Atapi の意味はすなわち、「精進」。 b)Sati の意味はすなわち、「正念」。 二種類の正念がある(すべての正念は、善法であるが、日常生活における「注意力の…

「身念処」1-59

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 問:<今・ここ>を観照する三心と、<今・ここ>を把握する三心は、同じものですか? 答:双方共<今・ここ>という呼び名ですが、しかし、<今・ここ>を観照する三心(思慧)と、<今・ここ>を把握する三心(…

「身念処」1-57

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 出世間法の範囲においては、涅槃が所縁となる。道心(道識)と果心(結果)は、涅槃をもって所縁となしており、煩悩を断じ除く事ができるのは、道心である。 世間の範囲における正念正知は、実相般若であり; 出…

「身念処」1-55

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 実相とは、我々が(+上述した所の)座っている色身である。 座っている色身は、無知であり、無自覚である。そして、心が所縁(座っている色身)を認識するが、心もまた実相である。 世間には二種類の実相しかな…

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」5-121

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> まさに、この男性が、二股の枝で、その蛇を捉まえようとする時、心の中で思う: 「私はどのようにすれば、彼を害さないで、また、私が彼に、咬まれないという状況の下で、彼を取り除く事ができるか?」 この時、…

是誰庵のひとやすみ~傲慢な仏教徒

ゴータマ仏陀の教えた仏法は、大変な価値を持っていると思います。 一たび四聖諦を知り(本当にその本質を知るには、修行しなければなりませんが)、八聖道を実践していくと、なんだか未来が明るくなったような気がします。 しかし、だからと言って、他の宗…

「身念処」1-54

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> <今・ここ>には二種類ある: <今・ここの思慧>と、<今・ここの修慧>である。 <今・ここの思慧>は、一般的な修行が良好な状況であって、<今・ここの思慧>を先導者として初めて、<今・ここの修慧(実相般…

「身念処」1-53

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-6 <今・ここ>と実相 <今・ここ>は、以下のように定義する事ができる: 1)心・身の実相が顕現し、かつ、我々の貪欲とは相応しない、暫くの時間。 2)三心(明覚):すなわち、精進、正念、正知でもって心…

「身念処」1-52

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-5-2-1 刹那定(瞬間定) Vipassana の修行をする時、我々は、刹那定を利用しなければならないが、その理由は、刹那定は、いまだ六根の内にあるからである。 所縁を変える時、たとえば:座っている色身から、心…

「身念処」1-51

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 1-5-2 定 定の意味とは、専注、または専注の結果、であるが、近年来の理念の中では、ある種の教師は「不散乱」という、この種の、比較的広義の定義を使う場合もある。 定は、vipassanaの修行にとって有用であるが…