Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

仏教

「身念処」3-5

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 5-1 行道智見清浄について(注1) 行道智見清浄(+5~13までの階智の総称)。 もし、修行が正しい場合、行道智見清浄は、この智(第四階智)によって生起する観智である、と言える。 このような名前で呼ぶのは…

「身念処」3-4

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 3、遍知智 一つ前の階智では、修行者は、ただ心身の因(生起)をのみ、体験・証悟しただけで、まだ、身・心の滅ーー身体が迅速に、不断に生・滅するーを見ていない為、生・滅の現象を見ても、修行者の智慧は、い…

「身念処」3-3

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2、因縁智を掌握する 修行者は、第一階智を体験・証悟した時、もし、彼が更に続けて<今・ここ>において、身・心を観照するならば、彼は多くの種類の色身と、多くの種類の心がある事を体験・体得する。また、観…

「身念処」3-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 鋭利な実相般若は、我々(+修行者)の邪見をば、修行者自身の感覚の中から、根こそぎ取り除く為、今、修行者は、身・心の自然な真実の状態(実相)を見る事に成功した。 修行者がこの智を成就する時というのは、…

「身念処」3-1(116/203)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 第三章 成果 聖者は生死輪廻を脱し離れ、一切の貪愛を断じ尽くした。涸れた河道の中、愛水は二度と奔流する事はなく、生死の巨大な車輪は、二度と回転する事はない。 これが苦の止息;涅槃である。(小部ニカーヤ…

「身念処」2-30

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-4 結論 正しい修法は、正しい結果を招く。 正しい修行は、智慧と、以前の資糧(多くの生による所の、正しい修行の累積)による。 重要なのは、この種の修法は、我々が身・心を「私」自身だ妄執する所の邪見か…

「身念処」2-29

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-3-7 その他 病気は、修行の障礙にならない。しかし、修行者の多くは、(+病のために)座る色身を感じ取る事ができなくなる。というのも、このようにすれば、病状が更に悪化するからである。 彼はただ、疾病…

「身念処」2-28

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 修行者は、姿勢とは、(+一つの)「色身」のみ、ということはなく、座る色身、歩く色身など等、異なる色身がある事を(+知っておかねばならない)。 そうでなければ、修行者は、同じ色身が立っていたり、座って…

「身念処」2-27

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この種の修法にとって、定に偏り過ぎるのは、よい事ではない。 (+定が過分の時)座って観照する時、修行者は、ただ座っている姿勢を知っていて、座っている色身を知らない; または同様に定が過分の時、修行者…

「身念処」2-26

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-3-4 身・心 この修法に関して、身・心を所縁としている事を理解するのは、修行者にとって、非常に重要な事である。 もし修行者において、身・心に対して、覚照し続ける力がないのであれば、非常に勇猛に精進…

「身念処」2-25

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-3-3-1 修行者が己自身へ発するに適した質問 1)座る色身は常であるか、無常であるか? 無常である。 2)我々は、なぜ、無常であることが分かるのか? 苦が常に我々に色身(+の姿勢)を転換させるように迫る…

「身念処」2-24

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-3-3 課題 1)「我」ありと思う煩悩の汚染は、どこから侵入するのか? それは心(受)から侵入する。 心の感覚、たとえば、「私」が座っているという感じ、己が座っているという感覚(+があるが故に)。 この…

「身念処」2-23

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-3 修法の研究 2-3-1 当該修法と四聖諦との関係 1)苦諦: 我々は、一つひとつの姿勢の中において、苦を見ることができる。そして、発見した苦は、苦苦及び行苦である。この二種種の苦は、我々をして、苦諦…

「身念処」2-22

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-2-5 初心者向け簡素な修法 修行を始めたばかりの初心者は、その修法を複雑にするのは好ましくない。というのも、身体は(粗いので)観照しやすく、心は(微細なので)観照し難い。故に、初心者は、<今・ここ>の…

「身念処」2-21

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-2-4 修行者が正しく修行しているかの判断 修行者にとって、己自身の修法が、正しいかまたは間違っているかを判断する事は、非常に重要である。 正しく修行している場合、彼は己の身体の姿勢を知っており、また…

「身念処」2-20(100/203)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-2--3-1 なぜ自然な修法を用いるのか? 因・縁法は、自然律または自然的な法則(因果定律)である。 それらは、宇宙のどこにでも存在していて、仏陀はその真理を発見したのである。それは三つの特徴を有している…

「身念処」2-19

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-2-3 自然な修法 1)座っている時(+の姿勢)、動作及び歩く時は、家にいる時と同じように、普段の姿勢を保持する。 2)「自然に」座る。 普段の生活においては、色々な姿勢で座り、色々な姿勢で立ち、歩く。…

「身念処」2-18

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 修行者が注意しなければならない事は、「修行の為」と称して、家事や雑事を早く終わらせようとしてはならない事である。 この種の「修行しなければならない」という貪欲は、一種の煩悩である。というのも、修行者…

是誰庵のひとやすみ~ごまかさな仏教~その2

佐々木閑先生と宮崎哲弥氏の対談本 『ごまかさない仏教』 なかなか面白かったです。 ただ一つ、ちょっと「???」と思う箇所があり、本日、読み直してみましたら、やっぱり「???」でしたので、一言申し上げます・・・ごまかさない為に~笑。 p173、文章…

是誰庵のひとやすみ~ごまかさない仏教ーその1

佐々木閑先生と宮崎哲弥氏の対談『ごまかさない仏教』を読みました。 なかなか読みごたえがある本だ、と思います。 対談の内容に賛否があるとしても、仏教に関して、自分には何が分かって、何が分かっていないか、<ごまかさない>という態度はとても大事だ…

是誰庵のひとやすみ~感謝で生きる(翻訳番外編)

<感謝で生きる> 1、私を批判する人に、私は感謝する。 彼は私に、定と智慧を育成してくれた。 2、私に依存する人に、私は感謝する。 彼は私の、能力を高めてくれた。 3、私を捨てた人に、私は感謝する。 彼は私に、自立するように促してくれた。 4、私…

「身念処」2-17

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ここに、一つの、よいアイデアがある。 修行者は、一日の時間を費やして、一日の内に、何度、またはどれほど多くの挙動・行動が、色身の苦を治する為であるかに、注意を払う。 その結果に関して、相当の人が、驚…

「身念処」2-16

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 修行者は、以下のレベルの「如理作意」を、実践しなければならない: 食べる、飲む、沐浴する、または厠、食器洗い、洗濯などなどの日常的な活動において、たとえば、食べる時、物を食べるのは、ただ苦を治するた…

「身念処」2-14

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 8)もちろん、我々は、座っている色身など等を、「見た」という事はある。しかし、実際には目を使ってみているのではなく、または各種の異なる姿勢を注視している訳ではなく、身体への覚照は、心ーー正念正知ー…

「身念処」2-13

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> これまで修行した事のない人には、妄想しやすい、という問題がある。そして彼らは、修行が進むと、彼らの中に、妄想したくない、という思いが生まれるーーこれは中道ではない。 初心者は、定を維持するのが大変に…

「身念処」2-11

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 記憶もまた、覚照力を形容することができる(=記憶もまた、覚照力であると言える)。 頭から足までの、色身全体(座っている色身など等)においてーー色身は無知(=知る能力を有しない)、心だけが知ることがで…

「身念処」2-10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 感覚とは、あなたが座っている様子を(+自分で)感じる事と、それが一個の、<座っている所の色身である>と感じる事を言い、これがまさに正知である。 しかしあなたが「感覚」とう言葉を使う時、注意を払う必要…

「身念処」2-9

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 正念と正知は、同時に運用される。 正しい修行方法とは、「今、私は座っている」の「私は」を取り去り、「現在(+の状態と)は、座っている色身である(=座っているのは私ではなく、色身である)」とする。 上…

是誰庵のひとやすみ~アチャン・チャーの想い出

私が毎年タイに通って、パーリ・ダンマを学び始めたのは、もうかれこれ40年くらい前でしょうか。 小さい頃から仏教が好きでしたが、子供心になぜか大乗経典が仏説であるとは思えなかった私は、仏法の源流のインドか、またはタイやミャンマーでダンマを学びた…

「身念処」2-8

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> あなたは、自分自身に「誰が座っているのか?」等の問題を問う時、正念・正知(覚照力-注1)は向上して、あなたは「座っているのは色身である」と答える事ができるようになる。 精進、正念、正知の三者が統合さ…