Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳文

「身念処」2-29

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-3-7 その他 病気は、修行の障礙にならない。しかし、修行者の多くは、(+病のために)座る色身を感じ取る事ができなくなる。というのも、このようにすれば、病状が更に悪化するからである。 彼はただ、疾病…

「身念処」2-28

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 修行者は、姿勢とは、(+一つの)「色身」のみ、ということはなく、座る色身、歩く色身など等、異なる色身がある事を(+知っておかねばならない)。 そうでなければ、修行者は、同じ色身が立っていたり、座って…

「身念処」2-27

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> この種の修法にとって、定に偏り過ぎるのは、よい事ではない。 (+定が過分の時)座って観照する時、修行者は、ただ座っている姿勢を知っていて、座っている色身を知らない; または同様に定が過分の時、修行者…

「身念処」2-26

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-3-4 身・心 この修法に関して、身・心を所縁としている事を理解するのは、修行者にとって、非常に重要な事である。 もし修行者において、身・心に対して、覚照し続ける力がないのであれば、非常に勇猛に精進…

「身念処」2-25

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-3-3-1 修行者が己自身へ発するに適した質問 1)座る色身は常であるか、無常であるか? 無常である。 2)我々は、なぜ、無常であることが分かるのか? 苦が常に我々に色身(+の姿勢)を転換させるように迫る…

「身念処」2-24

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-3-3 課題 1)「我」ありと思う煩悩の汚染は、どこから侵入するのか? それは心(受)から侵入する。 心の感覚、たとえば、「私」が座っているという感じ、己が座っているという感覚(+があるが故に)。 この…

「身念処」2-23

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-3 修法の研究 2-3-1 当該修法と四聖諦との関係 1)苦諦: 我々は、一つひとつの姿勢の中において、苦を見ることができる。そして、発見した苦は、苦苦及び行苦である。この二種種の苦は、我々をして、苦諦…

「身念処」2-22

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-2-5 初心者向け簡素な修法 修行を始めたばかりの初心者は、その修法を複雑にするのは好ましくない。というのも、身体は(粗いので)観照しやすく、心は(微細なので)観照し難い。故に、初心者は、<今・ここ>の…

「身念処」2-21

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-2-4 修行者が正しく修行しているかの判断 修行者にとって、己自身の修法が、正しいかまたは間違っているかを判断する事は、非常に重要である。 正しく修行している場合、彼は己の身体の姿勢を知っており、また…

「身念処」2-20(100/203)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-2--3-1 なぜ自然な修法を用いるのか? 因・縁法は、自然律または自然的な法則(因果定律)である。 それらは、宇宙のどこにでも存在していて、仏陀はその真理を発見したのである。それは三つの特徴を有している…

「身念処」2-19

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 2-2-3 自然な修法 1)座っている時(+の姿勢)、動作及び歩く時は、家にいる時と同じように、普段の姿勢を保持する。 2)「自然に」座る。 普段の生活においては、色々な姿勢で座り、色々な姿勢で立ち、歩く。…

「身念処」2-18

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 修行者が注意しなければならない事は、「修行の為」と称して、家事や雑事を早く終わらせようとしてはならない事である。 この種の「修行しなければならない」という貪欲は、一種の煩悩である。というのも、修行者…

「身念処」2-17

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> ここに、一つの、よいアイデアがある。 修行者は、一日の時間を費やして、一日の内に、何度、またはどれほど多くの挙動・行動が、色身の苦を治する為であるかに、注意を払う。 その結果に関して、相当の人が、驚…

「身念処」2-16

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 修行者は、以下のレベルの「如理作意」を、実践しなければならない: 食べる、飲む、沐浴する、または厠、食器洗い、洗濯などなどの日常的な活動において、たとえば、食べる時、物を食べるのは、ただ苦を治するた…

「身念処」2-14

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 8)もちろん、我々は、座っている色身など等を、「見た」という事はある。しかし、実際には目を使ってみているのではなく、または各種の異なる姿勢を注視している訳ではなく、身体への覚照は、心ーー正念正知ー…

「身念処」2-13

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> これまで修行した事のない人には、妄想しやすい、という問題がある。そして彼らは、修行が進むと、彼らの中に、妄想したくない、という思いが生まれるーーこれは中道ではない。 初心者は、定を維持するのが大変に…

「身念処」2-11

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 記憶もまた、覚照力を形容することができる(=記憶もまた、覚照力であると言える)。 頭から足までの、色身全体(座っている色身など等)においてーー色身は無知(=知る能力を有しない)、心だけが知ることがで…

「身念処」2-10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 感覚とは、あなたが座っている様子を(+自分で)感じる事と、それが一個の、<座っている所の色身である>と感じる事を言い、これがまさに正知である。 しかしあなたが「感覚」とう言葉を使う時、注意を払う必要…

「身念処」2-9

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 正念と正知は、同時に運用される。 正しい修行方法とは、「今、私は座っている」の「私は」を取り去り、「現在(+の状態と)は、座っている色身である(=座っているのは私ではなく、色身である)」とする。 上…

「身念処」2-8

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> あなたは、自分自身に「誰が座っているのか?」等の問題を問う時、正念・正知(覚照力-注1)は向上して、あなたは「座っているのは色身である」と答える事ができるようになる。 精進、正念、正知の三者が統合さ…

「身念処」2-7

翻訳再開しました。 <Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 「如理作意」の具足されている時、我々は、痛みの感受が、身体の姿勢を、また別の姿勢に変更させるのだという事が分かる。 姿勢を変更する時、痛みは、新しい姿勢に追いてくる。「如理作意」…

翻訳番外編~預流果の美徳(A Map of the Journey)ー2

ブログを閲覧くださる皆様へ ★ 1月上・中旬は大変に忙しくしておりまして、「身念処」「テラワーダ仏教在家居士帰依戒律ハンドブック」の翻訳を再開しましても、またすぐ休む事になりますので、翻訳番外編として、Sayādaw u Jotika の著書<A Map of the Jou…

翻訳番外編~預流果の美徳(A Map of the Journey )-1

預流果である聖者が一たび、(+正念でもって)己自身の心の状態に気が付くようになった時、もはや、嘘をついたり、詐欺をするなどという事がない。 彼は非常に誠実になり、(+あらゆる事柄を)静かに観察する事ができる。 彼はいまだ、色々な物事を渇望す…

翻訳番外編~「偽比丘」の見分け方(4‐11)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 10、出家者に果物、トマト、キュウリなどの生野菜を供養する時、その野菜・果物の種がいまだ成長する可能性のある場合、施主は出家者に<作浄(浄を為す)>のやり方を学ばねばならない。 その方法は、野菜・果…

翻訳番外編~「偽比丘」の見分け方(4-10)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 9、南伝仏教の比丘の戒律によると、歯ブラシと水(注1)以外の、すべての、口に入るものは、必ず授与される必要がある。 食事の準備が終わった後、施主は、施主自ら、すべての食べ物を、出家者に授与しなければ…

翻訳番外編~「偽比丘」の見分け方(4-8)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 一般家庭におけるサンガ施 南伝の出家者は、早朝、衣を着用して、人々のいる場所に行って托鉢する以外、その日の朝、未だ誰かの要請を受けていないならば、出家者は、施主の要請を受けて、その人の家に行って、供…

翻訳番外編~「偽比丘」の見分け方(4-7)(45/70)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 付録2 サンガ護持編 ”世尊の弟子サンガは善行道者であり、世尊の弟子サンガは正直行道者であり、世尊の弟子サンガは如理行道者であり、世尊の弟子サンガは正当道行者である・・・すなわち、四双八輩であり、この…

翻訳番外編~「偽比丘」の見分け方(4‐4)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 混合薬とは、異なる種類の薬を混ぜて、食用するものを言う。 混合した後の薬は、その中の最も期限の短いものを基準として、時間を計算する。 例えば、漢方薬の材料は、一般的には、終生薬に相当するが、しかし、…

翻訳番外編~「偽比丘」の見分け方(4-3)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 7日薬(sattāhakālika)とは、南伝の比丘が、7日以内なら、手元に保存してもよく、また食してもよい薬の事。 1、バター(navanita)。 2、ギー(sappi)。 3、油(tela)ーー植物性油と動物性油。 4、蜂蜜(m…

翻訳番外編~「偽比丘」の見分け方(4-2)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 非時果汁の製造方法は以下の通り: 沙弥または在家など、具足戒を受けていない人が、ジュースにしたい小さな果物を押しつぶして、その後に布でろ過し、残渣と分ける。 ろ過したジュースは湯冷ましで希釈した後、…