Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵仏教談義>仏陀に会える?会えない?

随分前にタイで聞いた話。

あるタイ人僧侶が涅槃体験をしました(涅槃してしまうとアッチに

行ってしまうので、あくまで<体験>ね)。で、その時、仏陀(釈

尊?)が眷属を引き連れて、祝福の為に会いにきてくれました(と

本人主張)。

その体験を本にした所、スリランカのサンガからストップが

かかりました。曰く「仏陀釈尊)は、大般涅槃しており、もうこの

宇宙のどこにもいないので、会えるわけがない」。そして、その本は

発禁処分に・・・^^;。

私はこの話を聞いて以来、ずっと<涅槃とは何か?>を考えてき

ました。そして先日、「12縁起観禅体系」という、テーラワーダ

大乗、密教のそれぞれの瞑想の仕方に関する説明を網羅している台湾

の仏教書を読んでいて「ハタ」と思い至りました。原始仏教に近い

テーラワーダでは、仏陀は涅槃すると、人格、エゴなどは完璧に

<0=無我>になるので、もうこの宇宙のどこにもいない。故に会え

ない、と主張しています。しかし、大乗になると、如来蔵思想、仏性

思想が出てきて、(私どもが)涅槃すれば(または、涅槃しなくても

条件が合えば)仏陀に会えるのだと、思想・主張が変わってきています。

私自身は、仏教の無我説に反対(無我には色々な意味があるので定義に

要注意~補足)、非我説を採るので、故に、認識主体は不滅(不生

不滅)であり、それゆえ、条件が整えば、涅槃した仏陀に会える・・・、

共感します。どうやら、私の瞑想体験からくる実感は、如来蔵派&

唯識派が主張する所と合致するようです。

仏陀(=釈尊)は、「私の説法を鵜呑みにしないで、正しいかどうか、

何回も、何十回も、何百回も考え、純金を火で焼く如くに、よく試し

てから結論を出しなさい」と言いました。私はテーラワーダが好き

ですが、仏陀に会えるか?会えないか?の点については、

大乗に一票です(笑)。。

補足:無我という言葉は、色々な含意があります。無明を滅ぼした

最高の人格、エゴが0になる事を指して言う無我と、神のコント

ロールを受けないという意味の無我とを混同しないよう気をつけたい。

なお、テーラワーダでいう無我は、我々は身体と心からできているが、

それ以外何もない、という意味。この場合、では、誰が何のために

涅槃するのか?という命題が残る。シャンカラは仏教の虚無主義

批判したと言われているが、まさにこの点を指していると思われる。