Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵日記>捨ててこそ

先日のブログで書きましたように、アマ〇ンで、ラチェット式の

剪定ばさみを手に入れました。それで、2、3日前から庭木の剪定

に頑張っています。

今日は5時間ほど、あちこちの木を切りました。実は、我が家は

面積の1/3ほどが石垣に囲まれていて、その下は崖になっています。

坂道の途中にある家、とご想像くださいね。

で、前の居住者が、この石垣の縁に色々な木々を植えていて・・・、

いや、彼が植えたのではなくて、小鳥が種を運んできて自然と、増えた

のかもしれません。まぁ、どちらにせよ、石垣の縁に色々な木が所狭し

と生い茂っていて、小さなジャングル状態、ちょっと近寄れない感じ

なのです。私自身は、庭は自然な感じが好きなので、これはこれでいい

のですが、困るのは蔓性の植物が、大きく育った木のてっぺんまで

這い上がって非常に見苦しいのと、蔓がそれらの木に巻きついて、

木を枯らしてしまう事です。

その蔓を切るにも足場が必要で、石垣の縁が崖になっているから、

その崖から足を踏み外して落ちたくなければ、まずは雑木の枝葉の

整理から始めなければなりません。

そんな訳で、少しくらい太い枝でも、なんでもかんでも、なるべく

根本から近い所を、このラチェット式剪定鋏で切って切って切り

まくりました。

で、作業をしながら思ったのは、<捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ>と

いう言葉。この木も残したい、あの木も残したいと思うと作業は

はかどらないし、蔦を切るための足場を作るという目的も達成

できません。

「ここはシュロだけ残そう」と決めたら、周りにお気に入りの木が

あっても、未練なく、バッサリ切るより仕方ありません。菊を残そう

と決めた所は、お茶の木が一杯自生していたけれど、心を鬼にして、

茶の木の方を切りました。「これを残しておけば、〇〇gのお茶が採

れるなぁ」なんて思っていては、菊を生かせられないからです。

F 盆地に越してきて3年。菜園をやって2年目ですが、主を生かす

ためには、従は犠牲になって貰わねば仕方がない・・・、人間関係も

同じかもしれません。自分を、(又は場合によっては)他者を生かそう

と思ったら、やはり、<捨ててこそ>の思想と覚悟が必要なようです。

追補:日本の華道は僧侶が始めたそうですね。やはり、一本の花の内、

何を捨て、何を取るかに<人の道>を見ていたのでしょうか。今では、

華道はすっかり、女性の趣味の一種になってしまいましたが・・・。