Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵仏教談義>花鳥風月

私が若い頃、<花鳥風月を愛でる>のは、よっぽどの暇人か、

または金持ちの旦那衆で、そういうのって、発展性の無い、

後ろ向きの行為(人生)だなぁと思っていました。

しかし、キリスト教の聖者で、野山に暮らし、動物と話し

が出来た人がいて~名前失念しましたが~西洋にもそんな

人がいる事をしって、<花鳥風月を愛でる人>は、何か

深い諦観を持っている人なのではないか?と思うようになり

ました。

そして、最近kan.という人の<問題は解決するな>という

本を読んで、<花鳥風月を愛でる人>についても、ちょっぴ

り得心がいきました。

この世の中に起こる問題、即ちこの三次元の地球上で起こる

問題というのは、人間が自分の意志で解決できる類のもので

はない、と彼(kan.)は言うのですね。私も、うすうす

そういう事は感じていましたね。たとえば、ある種の失言を

して不興を買った時、問題を早く解決したければ、言い訳を

しないで、じっと耐えるのが一番いいのですね(失言するに

はするだけの理由があり、それを怒っている当の相手か、

または気心の知れた人に理解してもらいたい、という気持ち

になりますが、そこをぐっとこらえる)。

自分が動かない事によって、混乱は一番の最短距離で解決する。

欲得がらみ、早急の解決を望んで行動すると、せっかく解けかけ

た結び目が、また再びこんがらがってしまうのですね。

で、結局、自分ができる事は、不利な状況に耐えて、じっとしている

事。で、他にすることがないのであるから、日常的に<花鳥風月を

愛でて>生きればよい。なぜなら、<三次元世界で生きる>という事は、

不利な、せつない状況の連続だから(苦笑)。

そういう事が、最近、ずいぶんとわかってきました。

kan.さんの意見では、三次元世界、地球と言うのは、最初からこじれて

いる世界。こじれている世界に、人間、ちょっかいを出しても、どうせ

いいことありません。傍観が一番(ただし、<あるがままがいい>

という、あの<行き過ぎた、人をなめたような本覚思想のあるが

まま説>ではなくて、kanさんのいう<あるがままに受け入れろ>説は、

自分のハートを宇宙に対して思い切りオープンに開く事を要求していま

す・・・、宇宙に対して心を開く、ここがミソです)。

もし、あなたが宇宙に対して心を開くことが出来たら、ものごとは

あるべきように、あるべきところに収まります。人間がしないといけ

ない事は、なにもない。それならば、花か鳥でもみているより、仕方が

ない(苦笑)。

鳥を見ていると本当に美しいなぁ、と思いますね(神様が作ったのか

どうかは分かりませんが~~仏教では創造神はいないという事になって

いるので~~でも、「花や鳥は神様が作った」と言いたくなる気持ちは、

分かります。バラの蕾がほころんでいく様なんかも、非常に神秘的です

よね)。

詩聖李白が「花を愛で、お酒を飲んだ後、眠くなったら寝る。明日また

機会があったら一緒に琴でも弾こう」なんて詩を書いていますが、

李白また、世界は変えるのではなくて、味わうものだという事を

知っていた人なんだと思います。

kan.さんの「問題は解決するな」という本を読んで思った事と、最近の

私の心境を、ごっちゃまぜ、足して2で割って、書いてみました。

追補1:kan.さん「宇宙に対して心を開くには、気づきが必要です」

この<気づき>は、仏教ではヴィパサナ、アウェアーネスと

言われています。人間、一番大事なのは、富でも、名誉でも、

健康でも、美貌でもなく、聖なる気づき、まことの自己に気づく

心性であって、それは何々の宗教、宗派に属するものではなく、

人間ならだれでも持っている叡智、人類の宝なのです。

キリスト教の神父、牧師で、座禅をする人がいますが(上部

人士からは批判されているようです)、彼らはクリス

チャンでありながら、同時に、人間の普遍的叡智求めて

いるのだと思います。

追補2:キリスト教の聖者は、アッシジのフランチェスコ

だったと思います。