2014-07-12 是誰庵仏教談義>花鳥風月 仏教 私が若い頃、<花鳥風月を愛でる>のは、よっぽどの暇人か、 または金持ちの旦那衆で、そういうのって、発展性の無い、 後ろ向きの行為(人生)だなぁと思っていました。 しかし、キリスト教の聖者で、野山に暮らし、動物と話し が出来た人がいて~名前失念しましたが~西洋にもそんな 人がいる事をしって、<花鳥風月を愛でる人>は、何か 深い諦観を持っている人なのではないか?と思うようになり ました。 そして、最近kan.という人の<問題は解決するな>という 本を読んで、<花鳥風月を愛でる人>についても、ちょっぴ り得心がいきました。 この世の中に起こる問題、即ちこの三次元の地球上で起こる 問題というのは、人間が自分の意志で解決できる類のもので はない、と彼(kan.)は言うのですね。私も、うすうす そういう事は感じていましたね。たとえば、ある種の失言を して不興を買った時、問題を早く解決したければ、言い訳を しないで、じっと耐えるのが一番いいのですね(失言するに はするだけの理由があり、それを怒っている当の相手か、 または気心の知れた人に理解してもらいたい、という気持ち になりますが、そこをぐっとこらえる)。 自分が動かない事によって、混乱は一番の最短距離で解決する。 欲得がらみ、早急の解決を望んで行動すると、せっかく解けかけ た結び目が、また再びこんがらがってしまうのですね。 で、結局、自分ができる事は、不利な状況に耐えて、じっとしている 事。で、他にすることがないのであるから、日常的に<花鳥風月を 愛でて>生きればよい。なぜなら、<三次元世界で生きる>という事は、 不利な、せつない状況の連続だから(苦笑)。 そういう事が、最近、ずいぶんとわかってきました。 kan.さんの意見では、三次元世界、地球と言うのは、最初からこじれて いる世界。こじれている世界に、人間、ちょっかいを出しても、どうせ いいことありません。傍観が一番(ただし、<あるがままがいい> という、あの<行き過ぎた、人をなめたような本覚思想のあるが まま説>ではなくて、kanさんのいう<あるがままに受け入れろ>説は、 自分のハートを宇宙に対して思い切りオープンに開く事を要求していま す・・・、宇宙に対して心を開く、ここがミソです)。 もし、あなたが宇宙に対して心を開くことが出来たら、ものごとは あるべきように、あるべきところに収まります。人間がしないといけ ない事は、なにもない。それならば、花か鳥でもみているより、仕方が ない(苦笑)。 鳥を見ていると本当に美しいなぁ、と思いますね(神様が作ったのか どうかは分かりませんが~~仏教では創造神はいないという事になって いるので~~でも、「花や鳥は神様が作った」と言いたくなる気持ちは、 分かります。バラの蕾がほころんでいく様なんかも、非常に神秘的です よね)。 詩聖李白が「花を愛で、お酒を飲んだ後、眠くなったら寝る。明日また 機会があったら一緒に琴でも弾こう」なんて詩を書いていますが、 李白もまた、世界は変えるのではなくて、味わうものだという事を 知っていた人なんだと思います。 kan.さんの「問題は解決するな」という本を読んで思った事と、最近の 私の心境を、ごっちゃまぜ、足して2で割って、書いてみました。 追補1:kan.さん「宇宙に対して心を開くには、気づきが必要です」 この<気づき>は、仏教ではヴィパサナ、アウェアーネスと 言われています。人間、一番大事なのは、富でも、名誉でも、 健康でも、美貌でもなく、聖なる気づき、まことの自己に気づく 心性であって、それは何々の宗教、宗派に属するものではなく、 人間ならだれでも持っている叡智、人類の宝なのです。 キリスト教の神父、牧師で、座禅をする人がいますが(上部 人士からは批判されているようです)、彼らはクリス チャンでありながら、同時に、人間の普遍的叡智求めて いるのだと思います。 追補2:キリスト教の聖者は、アッシジのフランチェスコ だったと思います。