2014-07-31 是誰庵仏教談義>法然と明恵 仏教 先日、久しぶりに<明恵>を、図書館から借りてきて、読みました(明恵系で、一番最初に読んだのは、河合隼雄さんの<明恵夢を語る>だったと思います。仏教書を乱読していた、若い頃です)。 不思議な縁で、私は高校生の時、友人と京都に遊びに行って、明恵の高山寺を尋ねています、その頃は、明恵の事は、何も知らなかったのですが・・・。 さて、明恵は禅宗の僧侶で、彼は念仏の法然を批判しています(お互い、同時代です)。 法然、親鸞、明恵、道元、みな元々は天台宗の出身です。 天台宗は学問もする、修行もする。顕教も密教も修行する顕密共修の道場でもあり、学問寺でもあり・・・。 こうなると守備範囲は相当に広く、人によっては学問も、修行も、両方中途半端になる可能性はあります。 そんな中で、法然、親鸞たちは「仏教に学問はいらない」「ただ念仏せよ」といい、明恵、道元たちは同じく「仏教に学問はいらぬ」「ただ座禅せよ」といいました(ただし、仏教に学問はいらぬ、という事はありえないので、この場合、<学問に耽溺して頭でっかちになるのは本末転倒、仏教は実践してなんぼのもの>という意味でしょう)。 で、私自身は道元、明恵に連なる禅宗が好きなのですが・・・、最近、なぜ法然たちが「念仏せよ」と言ったのか、少し分かるようになりました。 まず、当時の社会背景として、社会が(戦争などで)混乱・荒廃していたので、特に庶民は、朝夕ゆっくり座禅などしている場合ではなく、それならば、いつでもどこでも、気が付いた時に、口で「南無阿弥陀仏」と称えるのがいい、というのが浄土宗の主張なのでしょう。 私は以前、「南無阿弥陀仏」って、いるかどうか分からない仏様の名前を称えるなんて迷信じゃないか?と思っていたのですが、タイで「ブッドー(仏陀の事)」「ブッドー」と称える修行方法があり、言葉は、意識を集中させ、気づきの力を育てる媒体であって、言葉そのものは、実は、なんでもいいのではないか?と思うようになりました(ただし、バイブレーションのよい言葉がいいですね。毎日「バカ」「シネ」と称えている人の根性は、悪くなるに決まっています~笑)。 私は座禅派で、「座ると気づきの力が増えて、いい事一杯あるのに・・・」と、座る習慣のない人の事を残念に思っていますが、念仏行者への批判は引っ込める事にしました。 もっとも、中国、台湾では、浄土宗(念仏宗)という独立した宗派なく、禅宗で座禅しながらも、座禅しない時は念仏を称える、座禅・念仏兼修という形を取っていて、念仏は、あくまで禅宗の範囲内という事になります。 日本はえらくたくさんの宗派に分裂してしまったのだなぁ、というのが、今の私の感想。 追補:南無阿弥陀仏の阿弥陀仏は印度、中近東ではアミターバーブッダといい、その存在の由来は、諸説あるようです。興味のある方は、各自でご研究あれ。