wong0110's diary

中国語で書かれた仏教書を日本語に翻訳して公開。+日常の心模様の独り言。

是誰庵仏教談義>仏教への誤解

私が「このたび、(緬甸で)出家する事になりました」と周囲の人々にお知らせすると、多くの人が「何か悲しい事でもあったの?」みたいな反応をします。

それで私は「いえいえ、子供の時からの夢がようやく実現するので、嬉しくて仕方ないのです」と答えるのですが、どれだけ分かって頂けているか・・・心もとないですね。

仏教は、もともと、仏教とは呼ばないで、<仏陀のダンマ>と呼んでいたもので、その意味は、<どんな宗教を信じるのも自由ですけれど、それ以前の前提として、人として知っておくべき事柄があります。それはあなたの人生を清く正しく、楽しいものに導くメタ理論です>というものです。元々は、宗派争いをする<宗教>とは概念、カテゴリーがまったく異なる教えなのですが・・・、残念ながら最近は<宗教>の一種に成り下がって、宗派争いしていますね、ほんと、恥ずかしながら・・・^^;

バラはどこの国においても、春または秋に花を咲かせ、二週間くらいで散っていきますが、それと同じ、仏陀のダンマは自然の法則を説いていて、それは、どこの国の人にも通用する<メタ理論>、なのです。

私は、つらい目に会ったり、悲しかったりするから出家する訳ではありませんが、<四次元世界はとてもつまらない世界だ>という認識はあります。四次元世界は、浜の真砂を積むように、積んでは崩れ、積んでは崩れる、無意味な行動(正しくは一瞬一瞬の反応)の積み重ねでなりたっているからです。

どんなに幸せな人でも、結局は、財産も名誉も、愛する妻子も、この世に置いて死なねばならない。そして本当の意味で幸せな人は、たぶんいないと思います(自分の家庭には問題がなくても、遠い親戚に<こまったおじさん>や<こまったいとこ>なんかがいたりして・・・、裕福な家庭にはまた別の苦しみがあったりするし・・・苦笑)。

瞑想すれば分かりますが、我々が感じる快感は、実はその直前の不快感によってもたらされるものです。快と不快は、糾える縄のごとしに、瞬間瞬間にあなたのもとを訪れ、あなたを束縛しているけれど、ほとんどの人はそれに気が付かないのです、いえいえ、気が付きたくないのですね(不快を感じた後、その不快感は無常とエントロピーの法則によって消えて行きます。不快感が消えた後、人間の本能として<ホッ>としますが、これが快感です。快感は不快感が支えているのです。人は、快感と不快感の繰り返す感覚的刺激に幻惑されて、<生きている感じ!><素敵!>と言っているにすぎません)。

仏陀が最高の悟りを得た時「私の教えは誰も理解しないし、誰も聞きたくないだろうから、私は私の悟りの内容を誰にも教えずに、このまま死のう」と思ったそうですが、仏陀のダンマを聞きたい人は、いないですね、特に日本では・・・そう思うこの頃です。

追補:私が近所の某男性に「もうすぐ出家しますので・・・」とお知らせした時「君は信仰心が強いのか」と言われました。

仏陀のダンマは、信仰心を必要としません。仏陀は「ナ・サルダー、信仰してはいけない」と言ったのです。

自分自身の<真の本質>を見極めるのは、信仰心に依りません。それは、知性と理性と、禅定に支えられた、<智慧>の力なのです。