Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵仏教談義>戒律について

11年前、パオ僧院の本山、モーラメンで修行した時、出家して尼僧(sayalay)になりました。パオのsayalayは、戒律は10支であると教わりました。

その中に<お金に触らない>というのがあり、パオ僧院内部に居る時は問題ないのですが、日本では、執事か秘書でもいない限り生活できないと思い、還俗して、在家に戻って日本に帰りました。

しかし、出家の願いやみがたく、色々情報を集めて、緬甸の尼僧は少ない人は5戒(在家の5戒とほぼ同じ)で済ませている人もいて、戒師と相談すればなんとかなるかも知れない、という事が分かりました。

それで、2014年12月、意を決してヤンゴンのモービー分院を訪ね、クムダ・セヤドーと相談して9戒尼にして頂きました(8戒、9戒、10戒の数え方が変則的で、ここでは書きませんが、9戒というのは8戒に<慈悲の実践>を足したもので、お金に触っても大丈夫です)。

で、本題はここからですが・・・。

日本に帰って「私はテーラーワーダの尼僧なので、戒律を守って、午後食事しないのです」と申し上げると、「異常だ」って言われるのですね。

「昔、冷蔵庫のなかったインドで、朝の托鉢で貰って来た食べ物を夜まで残しておいて食べるとお腹を壊すから、お昼までに食べてしまい、残りは捨てて、午後はお茶やジュースなどの飲み物で済ませたからで、暑い国の習慣としては、特別異常ではない」と説明するのですが、これがなかなか分かってもらえないですね。日本では、テーラワーダを小乗と言ったり、戒律至上主義と揶揄する風習があるからでしょうか?

もし、日本の仏教徒に、テーラワーダの出家者の戒律の中に梵行というのがあり、性行為一切禁止であると伝えたら、これまた「異常だ」と言うのでしょうね。

私は、タイのブッダダーサ比丘の「人はなぜ獣姦ができるのか?」という一文を読んで、目が覚めました。

私たちは、毎日ありもしない事を頭のなかで妄想しながら生きていますが、他者(異性、同性、動物?)を性の対象としてみること自体が、妄想の所産。

ブッダダーサ比丘が示す<妄想の本質>に納得する人は、性行為禁止の戒律の意味を理解し、実践する事ができるけれど、分からない人にとっては、テーラワーダの戒律は「非人間的で異常だ」となってしまうのでしょう。

酔生夢死はどちらか、よく考えて頂きたい。