Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵仏教談義>真我への疑問

私はパオ・セヤドーの「智慧の光」などの本を日本語に翻訳しているし、パオ僧院の9戒尼になって「禅定って重要!」な~~んて言ったりしているから、テーラワーダ大好き人間というだけでなく、テーラワーダの左派(?)みたいな存在に見えているかも知れません。

しかし、私には一つ解せない事があります。

それは<真我>、仏陀が否定したと言われる<真我の>存在。

去年年末、ヤンゴンのモービー寺院にいく時、先にBKKに寄って、長年の親友であるTさんと話したのだけれど、彼女は、「魂の科学」を翻訳した木村慧心先生が、よくタイにヨーガ(ヨーガニケタン)を教えにくる、というのです。私は「貴女、仏教徒でしょう?バラモンのヨーガやってもいいの?」と聞いたのですが、私のタイ語が下手な事もあって、それ以上、突っ込んだ話はできませんでした。

今、その「魂の科学」を読んでいる最中なのですが、真我と心素(チッタ)と、行蘊の関係について、とても具体的に描写されています。仏教では<真我(=不変の魂)はない>事になっているから、心(素)と心所の説明はしても、真我の説明はでてこない。

「魂の科学」では、心素が自己の内部へ向かう時、真我の存在を確認できる、と書いてあります。インドのヨーガ行者が何千年にもわたって、ないはずの真我を「ある、ある」と誤認しているのか、真我はあるけれどもそれは、インドのヨーガ行者がいうような<永遠不変なもの>ではなく、無常なのか(真我が無常で有る事を仏陀が発見したのか?)、その辺の所がいつも分からない。

私はヤージュニャバルキアの「認識主体は認識主体を認識できない」という哲理が好きなだけれど、それならば、真我または心と心所を観察しているのは誰なのか?という問題も、仏教徒の間でも解決できていないと思うのです(仏教徒にも混乱があって、仏陀の言ったアナッターは、無我だ、イヤ非我だと、議論が止まない)。

タイのアーチャンチャーが言うように、あまり書物(仏法書)に頼り過ぎてもよくないのかも知れない。ヴィパサナーで観智が成熟したら、おのずと分かる事を、本を読みすぎて頭でっかちになるのはよくないのでしょう。しかし、アビダンマッタサンガハくらいは読んでおかないと、善知識に質問もできないし・・・。

ああ、、痛し痒し、ですなぁ(←すっかりおっさんやんか)。