Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵仏教談義~17>子供の時からの疑問が解けた?

私は子供の時からの仏教好きですが、日本なら特に禅宗が好き(というか大日如来とか阿弥陀如来が出てくる他宗派は、ほとんど理解できない)。

で、読むのは主に道元禅師系譜のもの、無門関、碧巌録、中村元先生の原始仏典なんかだったのですが、その頃読んだ禅僧(と尼僧)の話が2つ、ずっと分からないで心に引っ掛かっていました。

一つは、修行を積んだ禅僧は、迫力のある眼力でぎろりと相手をにらむ、睨まれた相手は、震え上がる・・・という禅書によくある表現。

人間、朝晩座禅すると凄味が出るの?それとも単なる頑固おやじの威厳?それとも悟ると、そんな感じになる?

これ、長い事分からなかったのですが、先日ふとしたことで、「あっ、これかも~~!」。

私は、仏教を独学で学んだため、ダンマに対して勝手な理解と解釈をしている場合があり、たとえば、慈悲の心とは、誰にも彼にも、優しく対応する事だと思っていました。で、そんな訳で、年老いて、現在は<ちょっと軟弱な大阪のおばさん>タイプの女性になった訳ですが・・・。

先日ある会合に出たら、そこに、以前から私にさや当てしてくる女性(いい年をした後期高齢者)がいて、すっとんきょうな声で「あらぁ~~、貴女遅刻よぅ~~」「携帯電話に連絡したのにぃ~~聞かなかったのぉ~~」って言うから、私、ギロリと睨んで「あ、私、携帯持っていないのご存知ない?」「あんたの掛けた電話は、我が家の固定電話で、私が家を出た後、留守電に入ったんでしょ(ムスッ)!」とやり返してやった。以前の私だったら「あら~~、お電話頂いてすみませ~~ん」なんて穏便に済まそうとしたもんだけど、こっちも尼僧になったんだから、妙に強気(笑)、70過ぎてもいじめをやっているおばぁさんに慈しみの対応って、必要ない。そして、ここが大事→自分もイイ子ぶるの止めました。

私も長年座禅してきたから、禅書にあった件の禅僧みたいに、睨んだら結構怖いかも(笑)。それが分かった今日この頃、胸がすっとしました。

追補:<慈悲の心>をただ単に「人にやさしく」と理解すると間違います。慈悲は本来、それぞれ慈しみ=メッター、悲=カルナーという二つの異なる概念に基づいています。慈は慈しみの心で、他人を大切に思い親切にする事ですが、悲は、父親のような厳しい愛という意味です。優しさだけでは更生しない鈍感チャンには、鉄拳を食らわしてもいい、という事です。日本では<慈悲>と一つにくっつけて言うので誤解が多く、原点に戻って、パーリ語のメッターとカルナーとに分けて理解する必要があるのではないでしょうか?

(もう一つの尼僧の話は、また明日)。。