Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵仏教談義~24>天台宗の三諦

先日、津田真一先生の「反密教学」を読んでいたら、K阿闍梨への批判文がありました。K阿闍梨ってどんな人かな?と思ってWEB検索したら、全然関係ない和歌山にあるお寺のWEBに行きついたので、興味半分で、そのWEBを読んでみました。

そこには、天台宗密教系である事、祈祷する理由などなど、テラワーダが好きな私が知らない、面白い事が色々書いてありました。

その中で、日本の仏教が独自に発展させた考えに<三諦>があると書いています。

一つ目の空諦は、世界は空である事を認める事、二つ目の假諦は、現実世界も幻想とはいえ、存在している事を認める事(空だからと言って、霞を食べていたら死んでしまうので、現実も大事です~笑)。

三つ目の諦が、この二つの諦を統合した中諦。空にも偏らず、目の前の現実(幻想)にも偏らず、という事ですね。

ここから、日本の僧侶は、形式主義的な出家の形態をとらず、僧侶ながら、在家のようにふるまってもよいのだ、と結論しています。

ここは、私、ちょっと納得できませんでした。

聖と俗は分けるべきだと私は思います。

出家でも程度の低い人はいます(こういう私がそうです~苦笑)。在家でも、思わず教えを乞いたいような、立派な人はいます。どちらが上とか下とかの問題ではないです。

が、やはり、<僧侶>と自称する以上は、お寺に住んで梵行を行って欲しい。それは、僧侶と呼ばれる人々は、仏教がよく理解できない人、これから勉強しようとしている人の<清らかな広告塔>になる義務があるからです(この辺りが、仏教は、涅槃寂静を目指す、イヤ、菩薩道を行く、イヤ、本覚で、イヤ、即身成仏で、とかなんとか、卵と鶏の問題に絡むので難しい所なんですが・・・)。

ゴータマ仏陀は悟りを得た前後の頃(またはお城から出た直後)、髪の毛を切り落として剃髪した、といいます。それは、彼が批判した当時のバラモン教の人々が、長髪だったから、彼らと自己を区別するためでした。

形なんてどうでもいい、戒律がどうした、梵行なんてアホ臭い!なんていうのは一時、何事にもとらわれない悟りの境地にいるような気分になるかもしれないけれど、サンガの内実が、やがては、グスグスに空洞化していくのではないでしょうか?

日本で今、困った時に僧侶、寺院を頼ろうと思う人は、どれくらいいるでしょうか?(私は一度、仏教の教義について妙心寺系のお寺の住職さんにメールで質問した所、「幼稚園の経営で忙しい」「質問が高度で分からない」「他の人に聞いて」という返事がきて、絶句しましたね)。日本仏教の再生は、どこから手を付ければいいのでしょうか?

WEBで読んだ<天台宗の三諦>の説明文を、正しく理解しているかどうか自信がありませんが、自分ながらに考えた感想を書いてみました。