Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

25>ティク・ナット・ハン

今、ティクナットハン師の著書「微笑みを生きる」を読んでいます。行住坐臥、歩く時も立っている時も、座っている時も横になっている時も、つねに自分の呼吸に注意して、微笑みながら生きなさいという教え、素晴らしいですね。

私は止観の瞑想は止観の瞑想、慈悲の瞑想は慈悲の瞑想と、二つに分けて考えていましたが、師は、この二つは統合できると主張しているようです。

ただ、本格的な究極的ヴィパサナ、ルーパカラーパ(素粒子)の無常・苦・無我の観察をする時は、微笑んでもいられないので(笑)、師の主張は、どちらかというと慈悲の瞑想に足軸を置いているのだなと、私は理解しました。

師はまた「哲学的な瞑想より微笑の瞑想の方がよい」と主張されています。

私が所属している、緬甸のパオ派が採用している止観瞑想は、どちらかというと<哲学的瞑想>に当たりますが、人格の向上の方法論において、伝統的・保守的傾向があり、現代の複雑な社会に即応していない部分があるかもしれません(これは緬甸が、軍事政権とはいえ、農業国で、人々は基本的にのんびりしており、先進国特有の複雑で解き難い苦悩が、相対的に少ない、という事もあると思います)。

慈悲の心を育てる慈悲の瞑想と、無常・苦・無我を悟る智慧の瞑想と、車の両輪のようにこれを同時に育てる、バランス感覚が大事かもしれません。

追補1:台湾の僧侶が書いた仏法書に「君たち、止観の修行なんて100年早い。まずは自我の肥大、傲慢、自己中を治してから」とありました。人格形成してから(止観の)瞑想をするか、人格形成しながら瞑想するか、まずは瞑想を始めてから、自己の弱点を治していくか?なかなか難しい所ですね。

追補2:誤解のないように申し添えますが、パオのモービー僧院(ヤンゴン分院)の住職さんであるモービーセヤドーは<慈悲の人>と言われています。ヴィパサナ・メソッドは、若い頃にあっという間に終わってしまい、今は慈悲の瞑想を足軸にしていると聞きました。パオが<哲学の瞑想が主>であるといわれれるのは、我々外国人がパオでは、どうしてもヴィパサナに重点を置くから、という事もあると思います。