Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

是誰庵仏教談義~41>機嫌よく生きるー続編その1

昨日、私のブログ<機嫌よく生きる>を読まれた方から、もう少し突っ込んだ見解を書いて欲しいと、リクエストがありました。

人間、どうしたら<機嫌よく生きる>事が出来るのか?それを担保するのは何か?ちょっと難しくなりますが、以下に書いてみます。

緬甸(ミャンマー)のモーラミャインにあるパオ森林寺院で修行されて、涅槃体験をした方に山下師がいます。彼は日本に戻ってから「青空説法」というのを始めました。我々の本質は青空のようなもので、心に浮かぶ悩みは青空に浮かぶ偶さかの雲の様なもの、というような説明です。

これについては、テラワーダ(南伝仏教)が好きな人の中から「自分を青空に擬えるなんて、ゴータマ仏陀が反対した真我説じゃないの!」とご批判の向きもありますが、私自身は、山下師がどのような意図で青空を持ちだしたのか不明なので、今の所、批判も賛成もしない、という立場です(モーラミャインでお会いした後、未だ再会を果たしていないので)。

で、なぜ、機嫌よく生きる事と、青空と、真我説とが関係あるのか?と言いますと、私が<機嫌よく生きましょうよ!>と主張する時、その中に「自分とは何か?」という命題が潜んでいるからです。

ゴータマ仏陀は当時のバラモン教の真我説を批判して、ア・ナッターを主張しました。ア・ナッターは、日本では無我または非我と翻訳されています。無我と受け取った人の中に、自分というものはないのだ(身体と心以外の他に何かが存在している事は、全くない)、と理解している人がいます(東南アジアでもそう理解している人はいます)。

しかし、私はヤージュニャバルキアの哲学~認識主体は認識主体を認識できない~を踏まえて、ア・ナッターは、非我と翻訳するべき言葉だと思っています(中国語の仏教書では、無我と書かれた部分でも、内実は非我の意味で使っています)。

ここで、ゴータマ仏陀が「五蘊は自分のものではない」と宣言した言葉を思い出す必要があります。心と身体は自分のものではありません。禅定に入って観察すれば分かります(通常の意識では分かりません)。

心が自分のものでないならば、心に浮かぶ諸々の思い、妄想もまた、自分のものではないのです。故に、我々が朝夕に座禅・瞑想する習慣をつけて、歩く時も、立ち止まる時も、座っている時も、横になる時も、常に(軽い)禅定に入り、心に立ち上る妄想を自分のものではないとサティ(=マインドフルネス、気づきの力)によって確認しつつ、自己から切り離すことができたならば、残るのは<機嫌のよい・な・に・も・の・か>なのです(これを山下師は<青空>と表現したのかもしれません)。

ただ、通常の言葉の使い方として、「私は、今日一日機嫌よく過ごす事が出来た」と言いがちですが、心と身体が自分のものではないと分かった者は、この「私」という言葉は一種の方便、仮設であると分かるでしょう。

前置きが長く、難しくなりましたが、機嫌よく生きる事、心を青空の如く保つことはできます。

それはゴータマ仏陀が教えた、目覚ている間、自分自身の心(の動き)によく気づいている事、鋭敏な心で、自分を汚す妄想は、妄想と気が付いた時点ですばやく断ってしまう事、です(理論的には、妄想を妄想として楽しんでいる事を自覚していられるなら、それはそれで結構なのですが、凡夫がこれをやると、いつまでたっても妄想が切れなくて、妄想に巻き込まれて悩むという泥沼から足を抜く事ができません。初心者(凡夫)は、まずは妄想を切る練習をした方がよいでしょう)。

毎日の朝夕、15分、できれば30分、座禅・瞑想する習慣をつける事をお勧めします。