タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。
P15 に、こんな事が書いてあります。
《我々は比喩を使って仏法を語らねばならない。
なぜならば、仏法には一定した形式がないから。
それは四角いか?それとも丸いか?
あなたはどう思いますか?
唯一のよい方法は、比喩を用いて説明することです》
(「森林里的一棵樹」から)
私(ブログ主)は、人生自体が、比喩で出来ているのではないか、と最近思っています。
緬甸で出家してsayalayになりましたので、最近、しゃべる時に説教臭くなる時がありますが(苦笑)、説法はそもそも、すべて比喩で出来ていると思っています。
現代素粒子物理学の泰斗シュレジンガーは、「世界はとても奇妙な形で存在しており、人間の言語で説明する事ができない。あえて説明する時は、すべて比喩の形でしか言えない」と言っています。
ゴータマ仏陀の教示したダンマが、世界のありようの真理を述べているのだとしたら、当然、ゴータマ仏陀の教えはすべて比喩で語られたと思わざるをえない訳です。
指を見ないで月をみよ。禅宗で言われている有名な言葉も、そういう事を言っているのでしょう。
(#1-150525)
(翻訳文責Pañña-adhika sayalay)