Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~6>「遊び好きの子供」

#6-150531

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 19にこんな事が書いてあります。

 

《我々は心の性質について何度も何度も、反復して思惟した後に、心とは心であって、他のなにものでもない事が分かる。心とは、本来そういうものである。もし我々が、この事をはっきりと見極めるならば、我々はその場その場の、湧き上がる思いと感覚に執着しなくなる。不断に自分に言い聞かせる(とよい)「まぁ、(心とは)こんなもんでしょう」と。そうすれば、我々は(心の動きに)それ以上のものを加える必要がない(事が分かる)。心に対して如実にこのような理解を得ることができれば、(我々は)一切を手放すことができる。もちろん、そうだからといって、その場その場の思いと感覚がなくなるわけではない。しかし、湧き上がる一つ一つの思いと感覚は、その影響力を失うであろう。

例えば、最初我々は、遊び好きでうるさい子供にひどく悩まされて、彼を叱ったり、叩いたりするけれども、その後で、我々は徐々に、活発で、絶え間なく動き回るのは子供の天性である事を理解する。そういう事であれば、我々は子供を勝手に遊ばせておく事ができる。我々が(子供への気がかりを)手放したなら、煩悩(ストレス)もまた消える。どうして煩悩(ストレス)が消えるのか?今、我々は子供の天性を受け入れ、子供への見方にも変化が生じ、かつものごとの本来の面目を受け入れたからである。我々が(気がかりを)手放せば、心は更に静かに収まる。この時、我々には正見があるといえる》(「森林里的一棵樹」より)

 

さて、心は、どこにあるのでしょうか?最近は唯脳論が盛んですが、ゴータマ仏陀が説いたお経の教えに基づいて研究を重ねた理論書<アビダンマ>では、心は心臓の中の心基から湧いて出ると言われていて、瞑想で禅定に入ると、実際に確認できるそうです(パオ・セヤドー著「智慧の光」参照)。

心とは認識作用を持った、超高速で生・滅するパルスであり、心臓はパルス発生器のようです。パルスはパルス、あなたがタッチしなければ(エネルギーを補給しなければ)、そのまま減衰してしまいます。

「これはなんだ」「わたしのモノだ」とばかりに、あなたがパルスをいじくると、それは増幅してしまいます。

パルスの増幅が、あなたに混乱と困難をもたらすのです。

パルスをパルスのままに干渉しない事。それがすなわちゴータマ仏陀が教えた放下、無執着です。

追記:煩悩を<ストレス>と訳すと、仏陀の教えが非常にわかりやすくなると、つねづね訳者は思っていますので、上記翻訳文に(ストレス)という言葉を追加しました。

                     (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)