Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~9>「料理」

#9-150603

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 22上段にこんな事が書いてあります。

 

《我々にとって、自分の身体と口(訳者注)が悪から遠く離れるよう訓練する事ができれば、それ自体が功徳なのだ。ある種の人々は、功徳を積むには日に夜をついでパーリ語の経を読誦しなければならないと思っている。しかし実際には、あなたはあなたの身体と口を清浄にして瑕疵のないようにする事、それが功徳だ。これは理解するに難しい事ではない。ちょうど食べ物を料理する時、我々は最適な量を計りながら、それが最も美味しいと感じられるまで、これをちょっと放り込み、あれをちょっと放り込んだりする。そして、一たび、おいしく出来上がった料理は、もう何も追加する必要がない。というのも、必要不可欠な調味料は、すでに全部放り込んであるから。同様の道理で、己の身体及び言語に過失がないと確定したなら、それが我々に“美味”と、(心と身体の)バランスという功徳をもたらすのである》(「森林里的一棵樹」より)

 

日本禅宗の開祖道元さんは、「典座の仕事が一番大事だ」と言いました。食材を買いに市場に行く時、食材を買い集める時、買って戻る時、料理の下ごしらえをする時、料理をしている最中、食事している時、後片づけの時、悟る機会は一杯あります。

それに料理は慈しみの心で作らないと、食材がどんなに高級でも、本当のおいしさはでないようです。

テラワーダ(南伝仏教)では、出家僧侶が買い物に行ったり、台所に立つという事はありません。ゴータマ仏陀鹿野苑で最初の説法をした時、教えを受ける5名の比丘は、3名が托鉢に行き、その間に2名が教えを受け、または2名が托鉢に行き、3名が残って教えを受けたといいます。当時のインドの習慣で、出家者は基本、托鉢で命を繋いだのですが、現代のテラワーダ(南伝仏教)仏教国~タイ、ミャンマースリランカ等の出家者は今も、朝一番の仕事は托鉢です(あっ、その前に座禅と読経やります)。

私はタイと緬甸(ミャンマー)の森林寺院で托鉢食を頂いた経験がありますが、在家の方々から届けられる食事と暖かい心、涙が出るほどありがたかったです。お祭りなどの節目には、在家の方が日用雑貨~石鹸とかタオルとか~を持ってきてくれて、食べ物で一杯になった鉢を支えつつ、あれやこれやの雑貨が入ったビニール袋を両手いっぱいぶら下げて自分の部屋に帰る時は、思わず顔がほころんだものです。日曜など、親に一張羅の服を着せてもらった子供たちが恥ずかしそうに、小さな手で石鹸やらケーキやらをお布施してくれる時って・・・今日も一日頑張ろうって気持ちになりますね。

訳者注:大乗では身・口・意を守れと言いますが、テラワーダ(南伝仏教)では身と口です。意をコントロールできるのは聖者級の人だけだから、凡夫にそこまでは要求しないとうのがテラワーダ(南伝仏教)の主張だそうです。原始仏教の立場から大乗を批判した台湾の釈従信比丘の意見です。

                    (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)