Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~17、18>「あひる」&「家庭」

 

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 28に、こんな事が書いてあります(二話)。

 

#17-150610

《あなたの実践する修行は、あひるを飼うのと同じです。あなたの仕事は、あひるにエサと水をあげる事です。あひるの成長が早くても遅くても、あなたと関係がありません。(かくあれという執着を)放下して、その上で、自分の責任を全うします。あなたの全うすべき責任とは、修行そのものです。修行の進捗が早くても遅くても、自分の心が明確に弁えていればいいので、無理強いしてはいけません。このような修行は、良好な基礎を打ち立てる事ができます》(「森林里的一棵樹」より)

 

#18-150610

《もしあなたが仏法をお探しなら、それは森の中や山里または洞穴の中にはありません。それは心の中にあります。法(ダンマ、真理)にはそれ自身の言語がありますが、それは“経験的言語”です。概念と経験との間には、非常に大きな隔たりがあります。たとえば、コップ一杯の熱湯を例にして言いましょう。誰でも、この熱湯の入ったコップに指を差し入れれば、皆同じ経験をします――熱い。これを我々は、異なる言語の文字で表現する事ができます。同様に、いかなる人でも、自己の内心を深く洞察するなら、その人がどのような文化背景、地域、言語の住人であっても、皆同じ体験をします。もしもあなたがあなたの心の中で、真理の滋味を味わったならば、あなたがたは父母、兄弟、姉妹のような、一つの大きな家族となるでしょう。というのも、あなたがたは、すべての人に共通する“心の本質”に触れたからです》(「森林里的一棵樹」より)。

 

日本のお寺は、結婚した僧侶(?)が妻や子と共に住しています。テラワーダ(南伝仏教)の国のお寺(サンガ)は、出家者が修行するために寄り集まって住し、梵行が行われています。私が在籍した、緬甸モーラミャインの森林寺院では、当時 800~900 人の出家者と在家修行者がいましたが、人が争っているのを見た事がありません。修行者の内 200~300人は外国人(主に中国人、台湾人、韓国人)でしたが、皆一つの家族のようでした。この僧院は、病気をした人の為の入院施設も持っていましたから、一つのコミュニティー、ヴィハーラであると言えます。お寺とは、もともと梵行のヴィハーラではなかったでしょうか。

 

                     (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)