Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~19、20>「肥料」&「汚れた衣服」

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 29に、こんな事が書いてあります(二話)。

 

#19-150611

《我々の(心の)汚染は、我々の修行の肥料とする事ができます。たとえば我々が何か汚いもの――鶏糞や牛糞を我々の果樹の根元に振り掛けたならば、その木に成る果実は豊かにかつ甘くなります。苦痛の中に楽しみがあります。煩悩(混乱)の内に、平安があります》

(「森林里的一棵樹」より)

 

#20-150611

《我々の身体がすでに汚れている所へ、汚れている衣服を着たなら、我々の心もまた、その為に不快に思い、心が萎えます。これはとても自然な事です。もし我々が身体を清潔にして、着ている服も清潔で、整ったものであれば、心は軽快になり、嬉しくなるでしょう。同様の道理で、戒・律を受持しないのであれば、我々の行動と言語は清らかでなくなり、それが原因で、心は不愉快になり、居心地が悪くなります。もし我々が正確な修行から遠く離れてしまったならば、我々の心の中に存在する法(ダンマ・真理)の本質を徹底的に見極める事への障害になります。健全な行動と言語は正確に訓練された心に依る必要があります。というのも、心が、身体と口に命令を伝達しているからです。こういう事で、我々は、“己の心を訓練する”ことによって、絶え間ない修行をするのです》(「森林里的一棵樹」より)

 

私の経験では、どこの家庭にも、大なり小なり、一つや二つの問題があります。その事に対して悲嘆したりイライラしたりするのを心の汚染だとしたら、ここに立脚して修行する事は、とてもよい課題になると思います。お寺に出かけて敬虔な(?)仏教徒にならなくてもいいのです(笑)。自分の家が、自分の心が、修行の場です。比丘の 220 戒と言わずとも、在家の 5戒 は、守りたいものです。

                   (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)