Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~22>「魚籠」

#22-150613

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 31に、こんな事が書いてあります。

 

《もしもあなたが、物事の利害関係をはっきりとみる事ができたなら、他人からそれを教えてもらうまで、待つ必要はない。

自分の魚籠の中に、何かを見つけた漁師の話を思い出してください。彼は何かが魚籠の中にあるのを知っています。というのも、何かが魚籠の中で飛び跳ねている音がするからです。彼は魚籠には魚が入っているのだろうと思い、魚籠の中に手を入れると、何か別の生き物だという事に気が付きます。彼には魚籠の中が見えないので、それが何であるかを知る事ができない。それは鰻かもしれないし、蛇かもしれない。彼がそれを捨ててしまえば、後になって後悔するかもしれない。というのも、それがもし鰻であれば、彼はおいしい夕食を逃した事になるから。

また別の見方では、もし彼がそのまま獲物を握り続けていて、最後に蛇であることを知ったとしたら、その蛇に噛まれるかもしれないが、(今は)確定できない。しかし、彼の欲望はますます強くなる・・・というのもそれが鰻だったら、と思うから。彼が獲物を引っ張り出した時、それが蛇であると分かった瞬間、どのようであろうとも、何ら躊躇することなく、すぐにそれを放り出すであろう。誰かが “あっ、それは蛇だ!早く手を離せ!”と叫ぶまで待つ必要などないであろう。あなたが自ら蛇を見たなら、何も他人からの警告を聞かなくても、どのように行動すればよいか、自分自身が一番、承知している。

どうしてか?彼は危険を認識しているから――もし毒蛇に咬まれたなら、重病に陥るか、または死亡する。このことを誰かに教えてもらう必要があるだろうか?同様の道理で、我々は、修行を通して物事の本来の面目を観たなら、自分に害をなす行為をしなくなるのです》(「森林里的一棵樹」より)

 

自分に害をなす行為・・・これも凡夫には分かりにくい教えです。私も長年瞑想して、最近ようやく、言わんとする事がわかってきました。たとえば他人の悪口、言っている間、自分の人格も下がるし心も汚れるけれど、でもその時点では、自分の方が正論だと思っているから、口業だという事に気が付かない。人を恨むこともそうですね。これは、嫌いな人に出会った自分をも憎んでいる事になり、二重の悪業になりますね。

私は台湾の仏教書に書いてあった「掌に握りしめているそのガラスの破片を捨てなさい。掌から血が滴っているというのに」という警句が好きです。タイでは、自分に害をなす行為を蛇に例える事が多いです。熱帯雨林があって、毒蛇の被害が多いからでしょう。

                    (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)