Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~28>「果樹」

#28-150617

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 37に、こんな事が書いてあります。

 

《花が咲いた果樹にそよ風が吹くと、いくつかの花は瞬く間に散って地面に落ち、いくつかの蕾は枝にとどまり、そしてそれは小さな青い果実になります。いくつかの青い果実もまた、枝から落ちてしまう事がありますが、枝に残ったものは熟したり、熟れすぎる程熟れたりします。

人間は、風の中の花や果実のように、生命の異なる段階で“墜落”します。ある者は胎内で夭折し、ある者は生まれて幾日かで亡くなります;ある者は成人になる事なく世を去り、ある者は青年の時に早世しますが、しかし、人によっては長寿でかつゆるやかに自然死する者もいます。我々が人間について考える時、風の中の果実を思い起こさねばなりません――両者は共に、全くもって安定しないからです。

我々の心も同じく、法塵が生じると、心の中はごたごたもつれ、“吹き荒れ”て“墜落”します――風の中の果実のように。

ゴータマ仏陀は、一切のものごとは不安定な性質を有している事を知っていました。彼は果実が風に翻弄される状況を観察して、自分の弟子―比丘とサマネーラ達に思いを馳せました。彼は発見したのです:基本的に、彼らもまた同じように不安定だという事を!(この世の中に)例外なんてありえるでしょうか?これこそが一切のものごとの本質なのです》(「森林里的一棵樹」より)

 

ブログ主:無常とは何か?私は若い時から、ずっとこの事を考えていました。日本の僧侶が言う「無常とは花が散る事」という説明に納得がいかず、「もっと腹落ちする説明が欲しい」と思っていました。

刹那生滅。無常とは、刹那生滅の事です。

花が散るのは、それによって果実が実るのですから、めでたい事です。ゴータマ仏陀の教えは、そんなノンキな話ではないのです。

身心(と外部の物質、ものごと)は刹那生・滅している。夜の街でチカチカ光っているネオンサインのようなものです。刹那に生・滅しているエネルギー体は、縁によって玉突き状に現象しているにすぎず、実体はなく(無我)、我々がよりどころとして依拠できるものではない。身心を自分だと思ってはいけない。

これがゴータマ仏陀の言いたかった事だと、今は分かります。

追補:上記の<我々>とは何か?梵我一如でもないし、霊魂説でもありません。 それは、あえていえば <it>です。ゴータマ仏陀は無記としました。

<無我>は、私がいないという意味ではありません。心身(と外部の物質)の、エネルギー体としての現象性は、究極的には、素粒子としての自然な振る舞いであり、それを、誰か、神のような主宰者がコントロールしている訳ではない、という意味です。それを親鸞は自然法爾といいました。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)