Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~29>「おみやげ」

#29-150618

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 38に、こんな事が書いてあります。

 

我々は、己の身体を観察しなければなりません。体の中がどのようになっていようとも、ちょっと覗いてみせんか!我々が、ただ身体の外面だけを見るならば、それでは真理が見えてきません。我々が見ている頭髪、爪などなどは、結構きれいに見えるので、我々を魅了します。故に、ゴータマ仏陀は身体の内部を観察するように言いました――身体の中の身体を。身体の中はどうなっていますか?仔細にはっきりと見極めましょう!我々は、身体の内部に色々なものがあって、驚く事でしょう。これらのものが、我々の内部にあるというのに、我々は、それらを一度も、細かくしっかりと見たことがありません。我々はどこへ出かけても、身体と共にいるのに、我々はそれらに全く無知でいるのです。

我々はまるで、親友の家に行った時のようです。彼らは我々におみやげを持たせてくれます。我々はそれを受け取って、鞄の中に放り込みますが、その箱の中に何が入っているのかを確認するのを忘れてしまいます。後になって、それを開いてみたなら、なんと、箱の中には、毒蛇が箱一杯に入っていたのです!

我々の身体もこのようなものです。もし我々がただ身体の外観だけを見るならば、それを完美なもの、綺麗なものと見なしますが、我々は自己を忘れ、無常を忘れ、苦を忘れ、無我を忘れているのです。

もし我々が、この身体の内部を観察するなら、本当に気分が悪くなります。内部には何一つ綺麗なものはありません。もし我々が如実に観照して、故意に美化する事が無いならば、それはまことに悲しむべき、嫌悪すべきものである事を発見し、次には、厭離の心が生じる事でしょう。

この種の厭離の感覚は、決して我々に世間を敵視するよう勧めているのではなく、而して、我々の心が、徐々に明晰になって、放下する事ができるようになる、という訳なのです。

我々は、すべてのことがらが不確かであり、頼りにならないものであると見極めます。我々がそれらにどれほど大きな希望を抱いたとしても、かれらは結局は、無情にも去っていくものなのです――無常はどうやっても無常であり、不完全なことがらは、いつまでたっても不完全なのです。

ですから、ゴータマ仏陀は、色(身体)や声、香、味、皮膚感覚、法を経験する時、それらを放下しなさい、と言うのです。楽しいものも楽しくないものも、どうせ同じことなのですから、それらを放り出しなさい!》(「森林里的一棵樹」より)

 

ブログ主:ゴータマ仏陀が教えた身体の外と内部を見る修行は、<32分身の観察>と言われます。外はともかく、内部を見る・・・???

瞑想で禅定に入れば、身体の内部も観る事ができます。興味のある方は、拙訳「智慧の光」(パオ・セヤドー著)を読んでみて下さいね(姉妹編「如実知見」と共に、インターネット上で読めますよ~♪)。

                    (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)