Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~30,31>「ゴミ溜め」&「雑草」

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 39、40にこんな事が書いてあります(二話)。

#30-150619

「ゴミ溜め」

《もしあなたの心が静謐で、しかも専一であるならば、それは非常に有用な道具になります。しかし、あなたが座禅する時、その目的がただ禅定の喜悦を求めているだけであるならば、それは時間の浪費です。修行とは、まずは座って心静かにすると同時に専一になるようにし、その後に禅定を用いて身体と心の本質を観察するものです。しかるに、もしあなたがただ心を静かにさせるだけで、観照しないのであるならば、心はその時点では、安らかであり、汚染されていないとしてもしかし、それはまるで、大きな石をゴミ溜めの上に乗せているようなもので、その石をどけた時、それは元の臭いゴミのままなのです。あなたがたは、禅定を上手に利用しなければなりません。少しばかりの快楽の為にではなく、心身の本質を正確に観察する事。これこそが、あなたを解脱させる道なのです》(「森林里的一棵樹」より)

#31-150619

雑草

《あなたは深く沈思しなければなりません。その目的は、静謐を求める事にあります。

一般の人が思う静謐とは、ただ心の安定を指していて、汚染まで平定してしまう事は思いもよらぬことのようです。

(心が安定すれば心の)汚染は一時的に制圧されますが、それは大きな石で雑草を押さえつけているのと同じです。もし石を取り除いたならば、雑草は非常に短時間で再び繁殖します。実際、雑草は死んではおらず、しばらくの間、押さえつけられていたにすぎないのです。

座禅も同じ事です。心はとても静かになりますが、汚染が完全に収まったわけではありません。故に、“サマーディ”(定)は、決して拠り所となるものではなく、もしも、本当の静謐を求めるのであるなら、あなたはあなたの智慧を育てなければなりません。

“サマーディ”は、心の平安ではありますが、それは石で雑草を押さえつけているのと同じで、一時的な平安にすぎません。智慧による平安は、大きな石を雑草の上に乗せたなら、それを移動させない事です。このようにすれば、雑草は永遠に生えてきません。これこそが真実の平安、汚染の停止、安定した静謐であって、これらは、智慧から生まれてくるのです》(「森林里的一棵樹」より)

 

ブログ主:私は、もうすぐ50歳になろうかという時に癌を発症しました。それまで長く仏教を勉強していたので、平常心で手術を受け、楽しい入院生活を送れると思っていました。しかし、ある事がきっかけで(看護婦さんの心ない言葉)、私の心の均衡は一気に崩れ去りました。それまで座禅はしていたので、サマーディの力はある程度あったのですが、智慧がありませんでした。その後、私は仕事を辞めて、タイや緬甸(ミャンマー)の森林寺院で修行に専念しました。サマーディの力の上に、智慧が生まれてくるように、という思いで。精神性が順調に成長しているかどうか・・・こればかりは自内証ですから、己のみぞ知る・・・今後再度、精神の危機に面した時に、試されるでしょう。願わくば、漸悟でも頓悟でもいいので、智慧が深まりますように。

                    (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)