Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~43,44>「木」&「木材」

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 48,49,にこんな事が書いてあります(二話)。

#43-150625

「木」

もし我々が樹木を切り倒して、河の中に放り込んだならば、その木は下流に向かって流れていく。もしこの木が腐りもせず、川岸のどこかに引っかかるような事もなければ、最後には大海に到るでしょう。同じ道理で、中道を修習する心が、感官の耽溺、または自己を苛む苦行のどちらの端にも執着しないならば、必然的に真の静謐に至る事ができる。

我々が比喩として言う木とは、心の事であり、川岸の一辺は愛を、もう一つの辺は恨を表している。または、岸辺の一辺は楽しみで、もう一つの辺は不快であると言う事もできる。中道に従うとは、愛と恨、楽しさと不快の真実の面目――それはただ感覚に過ぎないのだと理解する事だ。一たびこのような把握ができたならば、心はそれほど簡単にそれらに靡いて、束縛される事はなくなる。生起したすべての感覚を増幅させることもしないし、それらに執着もしない、これが悟りの心の修行である。こうなれば、心は自由無碍に下流に流れ下って、最後には“涅槃の海“に入るのだ。(「森林里的一棵樹」より)

#44-150625

「木材」

もしあなたが、いくらかの興味をもって、あなたの心を訓練しようとしないならば、それはそれの本性に従って、依然として粗野で野蛮のままである。心の本性とは訓練できるものであり、訓練されて初めて、うまく利用できるようになるのである。木材で喩えてみましょう!もし我々が、樹木をその自然な状態のままにしておくならば、我々は永遠にその木材を使って家を建てる事は出来ないし、いわんや、家を建てるための板材やその他の材料にする事もできない。一言でいえば、大工が家を建てようとするなら、まずは樹木を捜し、原木を得た後、それを有効に適応させる。このようにすれば、彼は短時間で一軒の家を建てる事ができるというのだ。

座禅・瞑想と心の成長は、この事とよく似ている。あなたは、是が非でも、この自然な、訓練を経ていない心――あなたが森の中で見つけた自然な状態の樹木のように――訓練しなければならない。このようにして初めて、心は、自己に対してさらにきめ細かく細緻になり、ますます覚醒的でありつつ、さらに鋭敏になるのだから。(「森林里的一棵樹」より)

 

ブログ主:アチャン・チャーは、<涅槃の悟り>を、木が川を下って、大海に流れ込む様として表現していますが、台湾の仏教書に、仏法に基づく修行~如来の家業~を<河を遡る苦難>と表現しているのを読んだ事があります。河を遡る苦難・・・人間が、自己の心の深層にある悪い反応・習慣を止揚する事がどれだけ難しいか・・・。人生の正しい方向を見つけた人は、大海へ向かって流れ下る木のようであるけれども、八正道の一つ一つの実践には、河を遡っていく勇気と気概が必要だ、という事でしょう。

 

 

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)