Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~45,46>「蛆虫」&「マンゴー」

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 50,51にこんな事が書いてあります(二話)。

#45-150626

「蛆虫」

人生の楽しみは、友達がどれくらいいるかではなくて、“正見”を持っているかどうかで決まってくる。もし我々が正見を持っているなら、どこに住んでもどこに行っても、とても楽しい。

ただ、我々ほとんどの人々は、見解が正しくなく、それはまるで肥溜めに住んでいる蛆虫に例える事ができる。蛆虫は汚い場所に住んで、食べているものも汚いものだ。しかし、蛆虫にとっては、それがこの上なく快適なのだ。もしあなたが小枝で蛆虫を肥溜めから拾い出したなら、蛆虫は、必死になって抵抗して、自分の家に帰ろうとするだろう。

我々も例外ではない。教師が我々に正見を持つように指導しているのに、我々は座すも不安、立つも不安で、非常に居心地悪く、一目散に自分の悪習と妄想的見解の中に戻ってしまう。というのも、こうして初めて、我々は心地よく感じるからである。妄想的見解の有害な結果を見たことがなければ、我々はそれらから遠く離れる事ができない。修行は決して簡単な事ではなく、故に、我々は教師のいうとおりにする事が重要であり、修行とはそういうものなのである。もし正見を有しているならば、我々はどこへ行っても、楽しく過ごすことができる。(「森林里的一棵樹」より)

 

#46-150626

「マンゴー」

我々は、戒・定・慧は、すべての聖者が悟りに向かう為に必ず通らなければならない道だ、と言う。それらは、一つのものである。戒とはすなわち定であり、定とはすなわち戒である;定はすなわち慧であり、慧はすなわち定である。ちょうど一粒のマンゴーのように、それがまだ花であったころ、我々はそれを花と呼ぶ;それが結実すると、我々はそれをマンゴーと言い換える。それが熟すと、我々はそれを完熟したマンゴーと呼ぶ。同じ一粒のマンゴーでも、それは絶え間なく変化しており、大きなマンゴーは小さなマンゴーからなり、小さなマンゴーは大きなマンゴーへと成長する。それを同じ一つのマンゴーだと言ってもいいし、同じでないと言ってもよい。戒、定と慧もまた同じように相互に関連しあっており、言ってしまえば、みな覚醒の大道に向かうものである。

我々は理解しなければならない:マンゴーは、最初花の形で出現し、その後徐々に成熟する。他人がそれを何と呼ぼうが関係がない。一たびマンゴーが生まれたら、老いと成熟に向かって歩き始めるが、それは次にはどこへ向かっていくのだろうか?我々は、この問題をよくよく思惟しなければならない。

ある種の人々は、老いたくないと思いっていて、彼らが老いると、不満の心で一杯になる。このような人々は、完熟したマンゴーを食べてはいけない!我々はどうしてマンゴーが熟すようにと願うのだろうか?もし、時期が来てもマンゴーが熟さないならば、我々は人工的な方法でそれらを熟させる、そうでしょう?しかし、我々が年老いると、心は不満で一杯になる。ある種の人々はその為に泣く。それほど彼らは老いと死を恐怖する。もしそのようであるならば、我々はマンゴーの花を食べるべきで、完熟したマンゴーの実を食べてはいけない。もしこの道理を理解するならば、我々は仏法に出会う事ができる。一切(の真理)を見極めたのち、我々は静謐に至る。(「森林里的一棵樹」より)

 

ブログ主:日本でも老いを恐れる人々はいます。老後の医療、介護体制が整っていないという理由以外に、老いと死そのものを恐れているのです。老いらくの恋だとかPPK(ピンピンコロリ)だとか・・・、日本は、来世を信じない<断見>の人が多いので、無有愛(もうこれで人生終わりに近いので、自暴自棄的に、やりたい放題なんでもやる執着の心)に走るのです。私も、死ぬのが怖くないと言えば嘘になりますが、機会あるごとに少しでも修行して、ある程度の悟りと諦観を得て、従容と死ねるようになりたいと願っています。

                    (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)