Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話~50,51>「水と油」&「牛車」

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 54,55にこんな事が書いてあります(二話)。

#50-150628

「水と油」

水と油は同じではありません。同じ道理で、一人の智慧ある人と、一人の愚かで無知無明な人とは異なるのです。仏陀は色(物質)・声(音)・香・味・触感・法の世界に生きていましたが、彼は一人の阿羅漢であったので、それらから離れ、それらと絡み合う事はありませんでした。彼は、心は心であり、思いは思いである事を理解して後、徐々にそれらを放下しました。彼は、心と思いを混同する事はありませんでした。

心とは、ただ心であって、思いと感覚もまた、ただの思いとただの感覚であるだけなのです;ものごとはものごとのままに、そのままに!色はただ色であらしめ、音はただ音であらしめ、思いはただ思いであらしめておけばよいのであって、我々はなぜエネルギーを費やしてまで、それらに執着する必要があるのでしょうか?もし我々がこのような方式で考え、感受する事ができたならば、これこそが出離であり、無執着なのです。我々の思いと感覚は一辺にあり、我々の心はもう一つ別の一辺にある。それはまさに水と油のように――それらは同じ一つの瓶の中にありながら、しかし、分離しているものなのです。(「森林里的一棵樹」より)

 

#51-150628

「牛車」

例えば、ここに一台の牛車があるとして、牛がそれを引いている時、大きな丸い車輪が描き出す轍は、長いものになります。もしこの牛が、絶え間なく車を引っ張って歩いたならば、轍は車輪の動きに従って、どんどん伸びていきます;車輪は丸く、轍は長い。もし停まっている牛車を眺めているだけならば、車輪の長さを知る事はできません。しかし、一たび牛が車を引いて歩き始めたなら、轍もまた我々の後ろで長く伸びていくのを見るでしょう。そして、ある日、牛が疲労困憊して軛を外し、そこから走り去り、牛車だけがそこに残り、車輪はもう二度と回らなくなるとしたら!やがて時間がくれば、この牛車は自然に崩壊・分解し、バラバラになります。車輪を構成するすべての部分は、四つの元素:地・水・火・風に帰っていきます。

世間法に従っている人々も同じです!もし誰かが世間法の中で安寧と静謐を求めようとしても、それは止まる事を知らないが為に不断に作りだされる轍のように、ずっと続いていくのです。もし我々が不断に世間法を追い求めるならば、我々は停止する事はできず、安らぐ事もできない。もし我々が純粋に、世間法に追随する事を止めたならば、車輪は止まって再び回転する事はない。絶え間なく世間法に追随するならば、轍は引き続き先へ先へと延びていきますが、悪業をなす事もまた同じ原理なのです。我々が轍を何度も踏みつけるならば(=同じ過ちを何度も繰り返すならば~訳者注)、一切合切、止まる時は永遠にこない。我々が止まるならば、一切合切もまた止まる。これがゴータマ仏陀の教えた修習なのです。(「森林里的一棵樹」より)

                  (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

ブログ主:確か、ヘルマン・ヘッセの著書に「車輪の下」「シッダールタ」というのがありました。残念ながら「車輪の下」しか読んでいません・・・(ずいぶん昔の事で、内容も思い出せませんが・・・^^;)。

ゴータマ仏陀の教えを読んでいると、軛とか轍とかがよく出てきます。インド文化圏は牛を使った農耕社会なので、このように表現されると、当時の人々はゴータマ仏陀の教えに腹落ちする事ができたのでしょう。私も時々、人生は車輪が作り出す轍のごとく、退屈で、無意味な繰り返しなのではないか?と思う事があります。しかし、それを腹の底から理解し納得して無意味な行為を止める事、それについては<勤勉>でなければなりません。