Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

アチャン・チャー一日一話

タイの高僧アーチャン・チャー(92年遷化)の法話集(台湾伝承出版社)が手に入りました。P 56,57にこんな事が書いてあります(三話)。

#52-150629

「水の流れ」

肉体の老化と病気と痛み、それは確かにあります。それはそれの本性に従っているに過ぎないのですから。我々をして苦しませているのは、身体ではなくて、我々自身の誤った知見なのです。我々が(真理を知らず)誤解する時、煩悩は止まる事を知らない。河の水は、当然のごとく下流に向かって流れますが、これは水の本性です。我々が川岸に立って、水が急速に流れ下るのを見て、奇想天外にもそれを逆流させようとすれば、我々はそのことで苦痛を感じます。我々は我々の誤った思想と想い「水よ、逆流せよ」によって苦しむのです。もし我々に正しい知見があったなら、水は必ず下流に向かって流れるものだと分かるでしょう。我々はこの事実に覚醒し、受け入れるより方法はありません。そうでなければ、我々は永遠に動揺して不安定のままであり、永遠に静謐な心を見つける事はできないでしょう。(「森林里的一棵樹」より)

#53-150629

「池」

正念を保持して、かつ、ものごとをそのあるがままにさせておく事、そうすれば、あなたの心は、いかなる所においても、安寧で静謐でいられるでしょう。まるで森の中の清らかな池のように静かであり、あらゆる、各種の奇妙で珍しい動物が皆ここへ水を飲みに来ますが、あなたは世界のすべての事物の本然を明らかに見る事ができた時、あなたは多くの美しくて好もしい、奇妙なものごとの去来を見るでしょう。その時あなたはなおも静謐を保ちますが、これこそが仏陀の喜びなのです。(「森林里的一棵樹」より)

#54-150629

 「雨水」

実際には、心はその自然な状態におかれている時は純粋で清らかなものなのです。まるで雨水のように。たとえば、我々が緑色の水滴を清らかな雨水の中にたらすと、それは緑色に変色します。黄色の水滴を入れると黄色に変色します。

心の反応もまたこれと同じです。愉快な法塵が心の中に“たらし”こまれると、愉快と感じます。もし法塵が不愉快であれば、心もまた不愉快になってしまうのです。まるで色のついた水のように、“汚く濁って”しまうのです。

清らかな水が黄色に会うと黄色になり、緑色に会うと緑色になるように、毎回入れられる顔料の違いによって、心は随時に変化するのです。ただ、実際には、黄色になったり、緑色になったりする水は、もともとは穢れなく清らかなのです。心の本来の境地もまたこのように清らかなのです。心は、穢れなく純粋で混濁していないものなのです。心が混濁するのは、ただただ法塵を追い求めて、感情の中に自己を見失ってしまうからなのです。

(「森林里的一棵樹」より)

                     (翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

ブログ主:心が森の中の静かな池の様である時、色々な動物が池の水を飲みに来る・・・。私はアーチャン・チャーのこの比喩が大好きです。“動物”というのは一種の比喩で、複雑な現代社会に生きる我々の心に映るのは、多く人間関係でしょうか。あの人が好き、あの人が嫌い。あの人が言ったあの一言が・・・。すべてはただ池の水に映った影だと分かれば泰然としていられますよね。たま~~にできて<OK!>と思う事がありますが、なかなか持続しないのは、まだまだ正念が足りないのですね(苦笑)。