Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

パオ・セヤドー問答集~#070、#071>問答7-10、7-11

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#070-150816

問7-10 心(citta)と見(diṭṭhi)は、どのように異なりますか?

答7-10 心とは心識を指します。しかし、心清浄の中では、それは特に近行定禅心(upacāra-samādhi-citta)と安止定禅心(uppanā-jhāna-citta)を指します。見とは邪見の事で、心所(cetasika)の一種です。それは四種類の、邪見と相応する、貪を根とする不善心(diṭṭhi-sampayutta-lobhamūla-citta 見相応貪根心)と同時に生起します。貪を根とする心(lobhamūla-citta)は、貪愛及び邪見又は驕慢と相応する心です。

邪見の中の一種類は、我想(atta-saññā)です。二種類の我想があります。一種類は、男性、女性、父親、母親などが存在していると思う事です。これは伝統的な踏襲による邪見で、我々はそれを「世間的通称我論」(loka-samaññā-attavāda)と呼びます。もう一つ別のものは、破壊不可能な自我(atta)が存在していると思う事で、我々はこれを「我見」(atta-dhiṭṭhi)と呼びます。これ以外に、破壊不可能な我は創造者(parama-atta最高我)によって作られたという考えがあり、これも一種の邪見です。我々はこれも「我見」(atta-diṭṭhi)と呼びます。

31界の中で、自我は存在しておらず、ただ名色とそれらの因縁のみ存在しており、それらは無常・苦・無我なのです。31界の外にも自我は存在していません。故に観智(すなわち、正見)は、一時的に我見を含む邪見(micchā-diṭṭhi)を破壊する事ができます。道智(magga-ñāṇa すなわち、道正見 magga-sammā-diṭṭhi)は、完全に邪見を取り除く事が出来ます。ここでは三種類の見があることになります。

  1. 邪見。
  2. 観禅正見(vipassanā-sammā-diṭṭhi):世間(lokiya)的正見。
  3. 道正見(magga-sammā-diṭṭhi):出世間(lokuttara)的正見。

 

《梵網経 Brahmajāla Sutta》の中で、62種類の邪見について述べられていますが、この62種類の邪見は、すべて我見から生じています。この我見は、身見(sakkāya-diṭṭhi 個体常住見)とも言います。身体(sakkāya 個体)とは五蘊を指します。身見とは、五蘊を我と認める、邪見の一種です。また、正見も色々な種類があります。「ジャーナ正見」(jhāna-sammā-diṭṭhi)、すなわち、禅支と相応するジャーナの智慧;「名色摂受正見」(nāmarūpa-pariggaha-sammā-diṭṭhi)。すなわち、究竟名色を透視する観智;「業果正見」(kammasakatā-sammā-diṭṭhi);因縁を識別する智慧(paccya-pariggaha-ñāṇa縁摂受智);「観禅正見」(vipassanā-sammā-diṭṭhi)、すなわち、名色とその他の因縁の無常・苦・無我の本質を透視する観智;「道正見」(magga-sammā-diṭṭhi)と「果正見」(phala--sammā-diṭṭhi)、すなわち、涅槃を認知対象とした正見。これらのすべての正見は、四聖諦の正見(catusacca-sammā-diṭṭhi)と言われる。

#071-150816

問7-11 修行者は如何にして日常生活の中、また止観の修行の中で、如理作意(yoiso-manasikāra)の練習をするのですか?

答7-11 最もよい如理作意は、観禅(vipassanā)です。もし、修行において、観禅の段階にまで到達する事ができたならば、最も良い如理作意を理解する事ができるでしょう。もし日常生活の中で、観禅(vipassanā)を修行できるならば、それは善果を生じます。たとえば涅槃を透視する道と果。しかし、あなたが未だ観禅(vipassanā)の段階に来ていないのであれば、あなたは一切の行法は無常である(sabbe saṅkhārā aniccā 諸行無常)と思惟するべきで、これも如理作意です。ただ、この如理作意は大変に弱く、「二番手」(間接的)な如理作意になります。

あなたは四梵住(brahmavihāra)、特に捨梵住(upekkhā-brahmavihāra)を修行するのもよいです。それは上等の如理作意です。というのも、捨梵住は業の法則を「sabbe sattā kammasakā」――「一切の衆生は、業を自分の所有物となす」と見なすからです。時々、あなたは不如理作意が生み出す悪果を思惟するべきです。不如理作意が原因で、多くの不善業が一つなぎになって生起します;これらの不善業は、四悪道(apāya)の諸々の苦の果報を生じさせます。このように理解する事自体が如理作意です。あなたは毎日の生活の中でそれを練習しなさい。(完)

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。