Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー問答集~#082、#083>問答(八)問8-3、問8-4

☆11月より長期リトリートに入る為、公開の翻訳文が少し多くなっています。よろしくお願いいたします。

#082-150822

問8-3 修行者は自分に最も適する法門をどのように選択すればいいですか?

答8-3 この問題は、自分自身で解決しなければなりません。我々は、どの法門があなたに最も適しているかということを、確定的に言う事はできません。註釈では、個人の性格(carita 性質)に合わせて修行の法門を決定すればよい、と書いています。しかし、そうは言っても、これは相当に難しい問題です。というのも、多くの人々は、多種多様な性格を持っているからです:貪愛が強い、瞋恚が強い、妄想が多い・・・、彼らがどの種類の性格に属しているのかを決めるのは、難しいのです。最も良いのは、あなた自身が色々な業処を研究して、自分で自分の修行の法門を選択する事にチャレンジする事です。

私が多くの修行者を観察して思うのは、彼らは通常、過去生において、四界分別観または安般念を修行しています:ある種の修行者は、徹底的に安般念を修行して、ジャーナの段階に到達しています。もし修行者が過去生で安般念業処を修行して、ジャーナに到達しているならば、私が安般念を指導する時、彼らにとって安般念は非常に簡単なのです。しかし、もし過去生で彼らが、安般念を、ある程度のレベルしか修行していない、すなわち、未だジャーナに達していない、または、何度か修行してみただけで、禅相を見たことがないのであれば、彼らの波羅蜜はまだ成熟しておらず、今生において、再度安般念を修行するにしても、彼らは非常に苦心して修行しなければなりません。

多くの修行者は、過去生において、四界分別観の修行をしています。もし彼らがかつて色業処(rūpa-kammaṭṭhāna)の段階に到達した事があるならば、今生においては、彼らは四界分別観を簡単に学び、簡単に修行する事ができます。しかし、もし彼らが過去に修行した事があるものの、いまだ色業処に到達していないならば、今生での修行は、やはり非常につらく厳しいものになり、努力が必要になります。

初心者について言えば、私は他の業処も教えます、たとえば、遍禅(kasiṇa-kammaṭṭhāna)です。しかし、彼らは強くて力のある禅定に到るのが、非常に難しいのです。しかしながら、安般念または四界分別観を修行し終わってから、その他の止禅法門に転換するならば、通常は、彼らはすべての止禅業処を簡単に成就する事ができます。

四界分別観を修行する時、あなたは硬さ、粗さ、重さ、柔らかさ、滑らかさ、軽さ、流動性、粘着性、熱さ、冷たさ、支持性、推進性という、とても多くの対象を識別しなければなりません。しかし、もしあなたが、四界分別観の修行者に成功したならば、非常に明るい光が生じます。この光の支えの下で、あなたは、身体の32の部分を簡単に識別できるようになります。もし内部と外部の32の身体部分を徹底的に識別する事ができたならば、あなたは遍禅(kasiṇa-kammaṭṭhāna)の修行に転向できます。もし遍禅を修行すれば、あなたはジャーナに到達する事ができます。

#083-150822

問8-4 このように言う人がいます:「実際は、五蘊は苦ではない。五蘊に対する貪愛が、本当の苦なのです」と。禅師、この問題について、簡単に説明して頂けますか?

答8-4 すべて苦諦(dukkha-sacca)です。《転法輪経 Dhammacakkapavattana Sutta》の中で、仏陀は:「saṅkhittena pañcupādānakkhandhā dukkhā」と言っています――「簡単に言えば、五取蘊は苦である」と。このように、仏陀は、五蘊は苦(dukka)であると教えています。どうしてか?というのも、五蘊は絶え間なく、生滅の危機に面しているからです。それらは、絶え間なく、生滅の圧迫と危機に面しており、それを我々は、楽だと言えますか?同様に、貪愛もまた生滅の危機に面しています。故に貪愛も苦なのです。ただ、貪愛は苦の直接原因ではありますが、貪愛だけでは苦が生じる事はありません。その他の、相応する名法と共に作用する時にのみ、苦が生起します。

たとえば、我々の菩薩の慈心観(ジャーナ段階の前の欲界善法kāmāvacara-kusala-dhamma)が、彼のこの人生の結生心(paṭisandhi-citta)になりました;しかし、ただ、貪愛の支持の下でのみ、慈心観は結生心を生じさせる事ができます。何を貪愛したのでしょうか?菩薩の生命を貪愛しました。菩薩の生命を貪愛した為、彼は慈心観を修行したのです。いまだ慈心禅に到達していない段階の慈心観善法(mettā-bhāvanā-kusala-dhamma)が、今世の結生五蘊を生じさせました。この例で言えば、ただ単に貪愛に依っては、五蘊(苦諦)が生じる事はありません。生まれ変わり、五蘊などを生じせしめるのは、慈心観であり、貪愛は慈心観の助縁という訳です。

結生心も苦です。どうしてか?それもまた、生滅の危機に面しているからです。一切の、生滅の危機の中にある究竟法(parmattha-dhamma)はすべて苦です。通常は、貪愛の支持があって初めて善法は結生を生じさせる事ができます;そして、貪愛は、無明(avijjā)に依存して、初めて生起します。我々の菩薩を例にとると、彼は菩薩の生命に未練がありましたが、これは貪愛(taṇhā)です;彼が菩薩は菩薩(という実体がある)と思っていたのは、無明(avijjā)です。どうしてか?《アビダンマ Abhidhamma》によると、衆生はただ名と色によってのみ構成されており、そのうち、色は色聚の状態で生起します。もし我々が菩薩を分析したならば、菩薩の身体の中には、ただ名と色があるだけで、彼の色もまた、色聚の状態で生起しています。これらの色聚は、生起するや否や即刻滅します。故に、いかなるものも安定しているものはなく、これは菩薩である、と述べる時間もない程です。無常という本質によって、仏陀も般涅槃に入るのです。

このように、もし修行者が自分を名色であると知るならば、これは明(vijjā 智慧)であります;もし彼が、これらの名色が無常・苦・無我であると知るならば、この種の認識もまた明です。しかし、彼が自分を菩薩だと思うならば、それは無明(avijjā)です。無明によって、我々の菩薩は、菩薩の生命を貪愛しました。無明(avijjā)と貪愛(taṇhā)によって、我々の菩薩は慈心観を修行し、いまだジャーナに到達していない慈心観善法によって、我々の菩薩は人間として生まれました。言い換えれば、慈心観善法が我々の菩薩の五蘊を生じさせました。五蘊は無常・苦・無我であり、それらは絶え間なく生滅の危機に面しています。故に五蘊は苦であり、貪愛もまた苦なのです。

(翻訳文責 Pañña-adhika sayalay)

 

初めてご来訪の方へ:上記は、台湾より請来した「禅修問題与解答(パオ禅師等講述)」(中国語版)の翻訳です(仮題「パオ・セヤドー問答集」)。「智慧の光」「如実知見」の姉妹版として、アビダンマ及びパオ・メソッドに興味のある方のご参考になれば幸いです。(一日又は隔日、一篇又は複数篇公開。日本及び海外でリトリート中はブログの更新を休みます)。